2006年11月04日

第2章〜宿命のライバル馬場〜

アントニオ猪木とジャイアント馬場。性格もファイトスタイルも異なる2人は、強烈な個性でプロレス黄金時代を築き、けん引してきた英雄だった。ともに60年(昭和35)に力道山の日本プロレスに入門。同期の戦友はやがてたもとを分かち、宿命のライバルとしてしのぎを削った。猪木にとって馬場とはどんな存在だったのか。出会いから、盟友時代、そして決裂に至るまで、数々の秘話をもとに、2人の関係にスポットを当てる。
▼プロレスの証言者 アントニオ猪木(1)
<第2章〜宿命のライバル馬場1〜>
http://www.nikkansports.com/battle/p-bt-tp0-20060913-89280.html

馬場さんはエリート

 1960年(昭和35)春、移住先のブラジルから帰国した猪木は、日本プロレスに入門した。当時、まだ17歳だった。すぐに東京・人形町にあった日本プロレスの道場に案内された。そこで2メートルを超える大男を紹介された。数日前にプロ野球の巨人投手からプロレスに転向した22歳の馬場だった。やがてプロレス史を二分する、宿命のライバルとの初対面だった。

 猪木「大きい人がいるなと思った。立ったら本当にでかくてね。今まで自分より大きい人に出会ったことがなかったから、『何だこいつは、化け物かよ』と思ったよ」。

 同期の2人はすぐに意気投合した。猪木には今も忘れられない懐かしい思い出がある。道場での練習後、くたくたに疲れた体で、2人でラーメン店に通った。当時1杯45円のラーメンを半分ずつ分け合いながら、旺盛な食欲を満たした。

 猪木「まず1杯ずつ食べる。足りない。もう1杯食べたいけど、お金がないから、1杯を半分ずつに分け合って食べてね」。

 すでにプロ野球選手として社会経験のあった馬場には大人の落ち着きがあった。17歳の猪木は兄のように慕った。背広をもらったこともある。ダブダブで大きすぎたが、それでもスーツを買う余裕のなかった猪木は素直に喜んだ。無邪気に将来の夢を語り合った。将来、ライバルとして敵対することなど、想像もできなかった。

 もっとも待遇面では天と地ほどの差があった。元巨人の投手でネームバリューがあり、2メートル9センチの超大型選手の馬場は、スター候補生として特別待遇を受けた。4畳半とはいえアパートで1人暮らしが許され、月給が支給された。一方、猪木は力道山の池上の自宅に住み込み、練習以外は付け人として早朝から深夜まで酷使された。

 馬場が免除された付け人生活は過酷だった。力道山から「あご」「こじき野郎」とののしられ、毎日のように殴られた。忘れられない屈辱がある。力道山が旅館から出発するとき、たくさんのファンの前で、靴べらでパチンと顔面をたたかれた。涙が出てきた。「情けなくて、悔しくて、何で、オレだけ殴られるんだと」。本気で辞めようと思った。

 猪木「バスを乗り換えて道場に通い、帰りはよくバスを乗り越した。品川から池上まで約6キロを歩いて帰ってね。遅くなって賄いのおばちゃんに『飯なんかないよ』と怒られたよ」。

 そんな不条理な日常にも、当時はまだ馬場に対してしっとやライバル意識は芽生えていなかったという。

 猪木「馬場さんはエリート。名前があったからね。力道山にも殴られたことはなかったんじゃないかな。オレは雑草。どうなるか分からない立場だった。でも、張り合うような気持ちはなかった。同期の連帯感があったし、5歳の年の差は大きかった」。【田口潤】

[2006年9月13日9時0分 紙面から]



▼プロレスの証言者 アントニオ猪木(2)
<第2章〜宿命のライバル馬場2〜>
http://www.nikkansports.com/battle/p-bt-tp0-20060914-89738.html

同日デビュー。2人の明暗

 1960年(昭和35)9月30日。この日が宿命のライバルの出発点になった。東京・台東区体育館で、入門半年を経た猪木と馬場は同日デビューした。2人の明暗はくっきりと分かれた。馬場は道場で最も弱かった桂浜から5分15秒、また裂きでギブアップを奪った。若手最強だった大木金太郎と対戦した猪木は、7分9秒、逆腕固めで敗れた。当時の悔しさを猪木は今も忘れていない。

 猪木「何で馬場は弱いやつで、オレは強い大木なのか…。理不尽な気持ちがあった。結局、当時は馬場さんが売り物だったんだ」。

 初めて同期の仲間への嫉妬(しっと)が芽生えた。力道山は馬場を将来のエースとして期待している。当時、17歳の猪木も師匠のマッチメークに意図を察していた。

 一方で猪木はブラジル移民ということで、横浜生まれにもかかわらず、ブラジル日系2世として売り出された。フジテレビのドラマ「チャンピオン太」に死神酋長(しゅうちょう)というヒール役で出演。力道山に面白がられ「死神酋長アントニオ猪木」のリングネームがつけられそうになったこともあった。

 猪木「死神酋長はさすがに勘弁だったけど、日系ブラジル人とされた不満はなかった。力道山は絶対的な存在だったから。ただ『あご』はそのままだから、日本の親せきに『おまえ、寛至(本名)だろう』と言われて困ったよ」。

 馬場との差をいかに埋めるか。対抗できる場所は道場しかなかった。馬場がベンチプレスを100キロ挙げたと聞けば、105キロ挙げる。すると馬場は110キロ…。競うように体を鍛えた。スパーリングでも負けなかった。実力は自分の方が上という自負もあった。だから、なおさら待遇の差に不満が募ってきた。

 猪木「馬場さんがすごかったのは屈伸運動。あの体重を支える足はすごかった。足の力で上に乗った人を簡単に吹っ飛ばした。でも(巨人でひじを壊したため)腕は悪かった。寝技も弱かった。スパーリングもしてたけど、オレは負けたことがなかった」。

 しかし、リングの上での待遇差は開く一方だった。すぐに馬場は45分3本勝負に昇格。猪木は20分1本勝負のままだった。そして、デビューからわずか10カ月後の61年7月、馬場は「出世の証し」ともいわれた米国武者修行の切符を手にした。猪木は、依然として力道山の身の回りの世話に追われ、殴られる日々が続いていた。

 猪木「5歳の年の差が救いで、深刻には悩まなかった。だけど、悔しかったし、焦りはあった。力道山の付け人生活もつらくてね」。

 米国でスターへの1歩を歩み始めた馬場に対して、自分は前座レスラーのまま。このころから馬場への嫉妬心とともに、師匠の力道山へ不信感を抱くようになったという。【田口潤】

[2006年9月14日9時25分 紙面から]


▼プロレスの証言者 アントニオ猪木(3)
<第2章〜宿命のライバル馬場3〜>
http://www.nikkansports.com/battle/p-bt-tp0-20060915-90168.html

馬場の米国での活躍

 馬場の米国での活躍は、日本にいた猪木の耳にも入ってきた。「東洋の巨人が、大柄な米国人をも驚かせた」「ビッグ・ババのリングネームで人気急上昇」「WWA世界ヘビー級王者のザ・デストロイヤーに挑戦して大善戦」。華々しいニュースを聞くたびに、猪木の焦りは増していった。

 63年(昭和38)3月。約1年8カ月ぶりの凱旋(がいせん)帰国時は、力道山が米ロサンゼルスまで飛んで出迎えた。破格の待遇は、将来のエースの座が約束されたことを意味していた。一方で、猪木の立場は入門時と何も変わっていなかった。リングでは前座レスラーから抜け出せず、日常は付け人として力道山の身の回りの世話に追われた。怒鳴られ、殴られる毎日。師匠の視線も、馬場に向けられたものとはまるで違っていた。

 猪木「力道山の靴を脱がせて、シャワーで背中流して、飯が終わるまで待って、風呂で洗濯して…。オレも米国に行きたくてね。早く米国に行きたい、行かせてくれ、という焦りがどんどん大きくなった」。

 リングの上ではさらに残酷な結果を突きつけられた。63年5月、凱旋帰国したばかりの馬場とともに日本プロレスの「第5回ワールド・リーグ戦」に出場した。しかし、優勝争いに絡んだ馬場に対して、猪木は5戦全敗。メーンイベントを任されるようになった馬場に比べ、前座若手レスラーの立場から抜け出せていなかった。馬場との立場の差を肌で痛感した。自分がもどかしく、情けなかった。

 力道山にも不信感を持つようになった。「3年で一人前にする」。17歳の入門時、力道山から約束された。その言葉を信じて、厳しく、理不尽な日々にも耐えていた。その3年がたとうとしていた。年齢も20歳になっていた。師匠に裏切られたような気分にもなった。将来に絶望していたとき、来日した元NWA王者サニー・マイヤースに「NWAに来い。王者にしてやる」と誘われたことがあった。心は揺れた。力道山の下から離れよう―。何度も自問自答したという。

 しかし、焦れば焦るほど現実は空回りした。実は春のワールド・リーグ戦中に、念願の米国遠征がいったん決まった。だが、喜びもつかの間、猪木は右ひざを負傷する。手にしかけた米国行きが目前で中止になった。代役として大木金太郎が選ばれた。そして同年10月には馬場が2度目の米国遠征へと出発した。

 猪木「オレは付け人生活に逆戻りでね。その後、大木がWWAの王者になった時は、落ち込んだ。オレが行くはずだったのにと、ショックでね」。

 プロレス人生で初めて大きな壁にぶち当たった。【田口潤】

[2006年9月15日9時3分 紙面から]



▼プロレスの証言者 アントニオ猪木(4)
<第2章〜宿命のライバル馬場4〜>
http://www.nikkansports.com/battle/f-bt-tp0-20060917-91221.html

力道山が急逝

 1963年(昭和38年)12月15日、力道山が急逝した。同8日に赤坂のナイトクラブで暴漢に刺された。回復に向かっていたが、容体が急変した。突然の師匠の死に直面し、猪木はやりきれない喪失感に襲われた。馬場への嫉妬(しっと)、米国遠征への焦り…。そんな悩みも一瞬で吹っ飛んだという。

 猪木「ショックとかいう普通の言葉では表せない。ボカーンと穴があいたような衝撃だった」。

 付け人を免除された馬場とは違い、猪木は入門から3年間、付け人として自宅で一緒に生活し、身の回りの世話をしてきた。4歳のとき、警察官だった父親を亡くした。記憶もほとんどない。だから力道山は師匠であり、人生で初めて出会った「父親」だった。

 もっとも当時の心境は複雑だったという。あこがれ、尊敬していた師匠から、毎日のように理不尽な扱いを受けた。機嫌が悪いと殴られ、試合内容が悪いと殴られた。酔ってゴルフクラブで頭を強打されたこともあった。殺意を抱いたこともあったという。馬場との差別への嫉妬もあった。

 猪木「子供のころからあこがれていたが、入門後は神様から人間に変わった。師匠であり怖いおやじだった。力道山にとっても、オレは使いやすく、そばにいて心地よいタイプだったのだろう」。

 しかし、恩師の死の直前、愛憎半ばした猪木の葛藤(かっとう)が霧散する出来事があった。力道山が暴漢に刺される前日の12月7日。大相撲関係者との宴会に、師とともに呼ばれた。ウイスキーを駆けつけ3杯で一気に飲むと、当時の高砂親方(元横綱前田山)から「こいつはいい顔してるな」と言われた。その横で力道山が「そうだろう」とうれしそうにうなずいた。猪木は今でもその顔を忘れることができないという。

 猪木「自慢げでうれしそうな表情を見て、自分への期待が初めて分かった。あの顔を思い出すと、それまでの恨みがすべて晴れた。オレは勝手に、あの時の師匠の顔は『今後のプロレス界を頼んだぞ』という遺言というか、メッセージだったと受け止めている」。

 師匠が死んだ日の夜から1年間、力道山の夢を見続けた。毎晩、足元に立っていたという。まるでプロレスの将来を自分に託しているようだった。

 猪木「ずっとオレを見てるんだよ。オレのじいさんになったりもする。金縛りで体が動かなくてね。怖くて、その間は電気を消して眠れなかった。でも、今でもずっと、力道山から見られているというか、見守られている気はしている」。

 力道山の死から3カ月後の翌64年3月、日本プロレスの社長を引き継いだ豊登から米国行きを命じられた。馬場から遅れること2年8カ月。21歳の猪木は、まるで亡き師匠に背中を押されるかのように米国へと出発した。【田口潤】

[2006年9月17日10時2分]



▼プロレスの証言者 アントニオ猪木(5)
<第2章〜宿命のライバル馬場5〜>
http://www.nikkansports.com/battle/f-bt-tp0-20060918-91838.html

念願の米国遠征


 1964年(昭和39年)3月9日。アントニオ猪木は念願の米国遠征に出発した。そこで武者修行の本当の厳しさを味わった。無名レスラーゆえに、1日1000キロを車で転戦しても、報酬が食事代にならないこともあった。観光ビザだったため移民局に呼び出され、強制送還されそうにもなった。

 力道山の付け人時代もつらかったが、衣食住は保障されていた。日本プロレスから練習場も提供され、試合も組まれた。しかし、米国では体一つで金を稼ぎ、自分で道を切り開かなければならなかった。だから各地のプロモーターに試合を組んでもらうため、常に全力でファイトした。そんな過酷な米国マットが、アントニオ猪木の原型をつくりあげたという。

 猪木 余裕はなかった。プロレスラー猪木をアピールするために、とにかく走り続けるしかなかった。観客数でギャラも決まった。テレビのインタビューでも、片言の英語でパフォーマンスしたりね。多感な時期だったし、あらゆることを吸収できた。

 後年「燃える闘魂」と呼ばれる猪木の闘志あふれる試合は、実力主義の米国マットに、徐々に認められていった。21歳の若い日本人が、ベテランを差し置いてメーンに抜てきされることもあった。戦後まだ20年たっていなかった。当時の日本人選手は、米国内の根強い差別意識から、各地でヒール役を命じられた。馬場も例外ではなかった。しかし、猪木はベビーフェースとしてリングに立ち続けたという。

 猪木 日本人でオレが初めて、米国でリングシューズを履いて試合をしたんじゃないかな。力道山もはだしだったし、馬場さんも、げたとか、はだしだったからね。オレの強さもあったし、昔の日本人の雰囲気ではなかったんだろうね。

 米国に来て初めて、リングの上で馬場に優越感を抱いた。そのころ日本では馬場がエースとして、力道山亡き後のリングを盛り上げていた。その情報がさらなる発奮材料になった。フレッド・ブラッシーら大物との対戦も増えた。観客に伝わるような激しいストロングファイトスタイルを確立していた。

 日本を出発してから2年。猪木はロサンゼルスで23歳の誕生日を迎えた。そして66年3月、日本プロレス幹部から帰国を要請された。たくましく成長した姿で、凱旋(がいせん)帰国できる。期待が膨らんだ。ところが、日本プロレスは1試合ごとの日本人契約ではなく、1週間ごとの外国人契約を提示してきた。この時、再び馬場との格差を痛感させられた。自信をつけていた分だけショックは大きかった。【田口潤】

[2006年9月18日12時15分]



▼プロレスの証言者 アントニオ猪木(6)
<第2章〜宿命のライバル馬場6〜>
http://www.nikkansports.com/battle/f-bt-tp0-20060919-92154.html

激しいライバル意識

 1966年(昭和41年)春、猪木は馬場に、かつてない激しいライバル意識を抱いた。米国遠征から帰国する直前、意外にも日本プロレスから外国人契約を突きつけられた。意図は、すぐに理解できた。日本では馬場が団体のエースとして君臨し、力道山の保持していたインターナショナル王座も継承していた。自分を外国側のレスラーとして帰国させて馬場の「引き立て役」にする魂胆だと悟った。

 猪木「当然、帰国すれば日本人選手の扱いを受けると思っていた。それが外国人扱い。『違うだろう』と。米国修行に行くまでは馬場とは5歳の年の差もあったし、それほどライバルと意識したことはなかった。だけど米国の2年間で自信もつけて、考えが変わっていた」。

 会社に強い不満と、激しい怒りを抱いた。帰国すべきか苦悩した。そんな時、放漫経営の責任を問われ日本プロレスの社長を追放された豊登に誘われた。「東京プロレス」という新団体への参加を説得された。「おまえが日本プロレスに戻れば、ずっと馬場の下。東京プロレスなら、メーンを張ってエースになれる」。口説き文句に心が揺れた。豊登には恩義もあった。力道山の付け人時代、プロレスを辞めようと思った時、親身になって引き留めてくれた。

 猪木「夢みたいな話をいっぱい聞かされてね。豊登には恩も感じていた。だから結局、新団体で勝負することを決めた」。

 66年4月、猪木は2年ぶりに帰国した。同時に、豊登が会長を務める東京プロレスの社長に就任した。日本プロレスでは若手にすぎない23歳が、いきなり団体のトップに立った。そして馬場への挑戦を宣言した。野心にあふれていた。

 しかし、現実は厳しかった。唯一の団体として絶対的な力を持った日本プロレスの圧力は、想像以上に強大だった。プロモーター、スポンサーを回って協力を訴えても、断られ続けた。今度はリングの外で馬場との差を実感させられた。

 猪木「金がなくて、今でいうラブホテルに事務所を構えてね。寝る暇もなかったけど、みんなプロレス好きだったし、必死だった」。

 夏の旗揚げ戦は延期された。そして社長就任から半年後の10月12日。ようやく蔵前国技館での旗揚げ戦が決まった。だが猪木以外のメンバーはマサ斉藤、ラッシャー木村ら若手しかいない。猪木本人も、そのころは馬場に比べ、国内での知名度は圧倒的に低かった。団体の行く末に、不安ばかりが募った。【田口潤】

[2006年9月19日9時12分]


▼プロレスの証言者 アントニオ猪木(7)
<第2章〜宿命のライバル馬場7〜>
http://www.nikkansports.com/battle/f-bt-tp0-20060920-92693.html

猪木時代が幕を開けた

 アントニオ猪木には「幻の名勝負」といわれる一戦がある。東京プロレスの旗揚げ戦のメーンカード、ジョニー・バレンタイン戦である。今から40年前の66年(昭和41年)10月12日、9000人の超満員で埋まった東京・蔵前国技館は、殺気に満ちた30分を超える熱戦に揺れ続けた。残念ながらテレビ中継はなかったが、この1試合で猪木の米国仕込みのストロングスタイルは、日本のプロレスファンの絶大な支持を得た。

 猪木「あの試合にプロレス人生を賭けた。約2年半ぶりの日本での試合だったし、最高の舞台で一発アピールする決意でリングに上がった」。

 バレンタインは猪木自身が交渉し、招聘(しょうへい)した選手だった。2年間の米国遠征後、猪木は日本プロレスに戻らず、23歳で東京プロレスの旗揚げに参加した。しかし、古巣の圧力で国内のスポンサーが集まらず、海外でも日本プロレスと提携していた世界最大のNWAに選手貸し出しを拒否された。資金がない上に、半年以上も試合が組めなかった。

 苦境を打開するために、猪木はたった1人で再渡米した。約1カ月間、全米各地を歩き回り、粘り強くプロモーターや選手たちと出場交渉を重ねた。そしてバレンタインに巡り合った。現役のUSヘビー級王者。何よりも「毒針」といわれる必殺エルボーを武器にした、迫力満点のファイトスタイルが気に入った。

 試合は壮絶を極めた。バレンタインの攻撃は殺気に満ちていた。鉄柱、エルボー攻撃で、額が割れた。顔面を血で染めた猪木は、何度も失神しかけた。しかし、23歳の新エースは不屈の闘志で反撃に出た。「毒針」に、後にナックルパートと呼ばれる弓を引くようなパンチで対抗した。ラフファイトに定評があるバレンタインをラフファイトで追い詰めた。最後は場外で得意のアントニオドライバーを爆発させた。31分56秒、リングアウト勝ちだった。

 猪木「パンチの連発で、試合後は全部のツメが浮いてしまった。あの試合は命を懸けるくらいの気持ちで戦った。オレのストロングスタイルの原点ともいえる試合。国技館に座布団が舞った。猪木の名前が一気にメジャーになった」。

 1人の若手選手に過ぎなかった猪木が、日本プロレス界の超新星になった瞬間だった。ついに日本のリングの上で、ライバルのジャイアント馬場にも負けない実力を示し、認められた。開幕シリーズでバレンタインとは3度顔を合わせた。2戦目は60分を戦い抜き引き分け。そしてタイトルが賭けられた同11月の大阪球場での第3戦でUSヘビー級王座を奪取した。

 猪木時代が幕を開けた。ファンも猪木本人も、輝く未来を予感していた。しかし、その猪木人気の拡大とともに、馬場がトップに君臨していた日本プロレスからの圧力も強まり、東京プロレスの経営は安定しなかった。そして、最悪の事件が起きた。【田口潤】

[2006年9月20日9時15分]


▼プロレスの証言者 アントニオ猪木(8)
<第2章〜宿命のライバル馬場8〜>
http://www.nikkansports.com/battle/f-bt-tp0-20060921-93168.html

東京プロレス、倒産

 アントニオ猪木のプロレス人生は、数々のスキャンダルに見舞われてきた。追放処分、ファンの暴動、借金…。リスクを背負っても走り続ける過激ともいえる行動力の裏返しでもある。その先駆けが「リング焼き打ち事件」だった。66年(昭和41年)10月28日、東京プロレスの東京・板橋大会。都電板橋駅前広場の会場のリングが、ファンに壊され、火を付けられた。旗揚げ戦のバレンタインとの名勝負からわずか2週間後の不祥事は、プロレス史上最悪の事件として一般紙にも報じられた。

 地元プロモーターが「選手のギャラを払えない」と言い出したのが発端だった。激怒した猪木は試合直前に全選手の出場を取りやめた。これに新たなヒーローの試合を見ようと集まったファンが怒り、暴動へと発展した。当時、批判は社長でエースの猪木に集中した。しかし、実は興行収益を自らの借金返済に回していた豊登会長の放漫経営が原因だったという。

 猪木 豊登さんには、力道山の付け人時代に辞めようと悩んだ時に引き留められたり、恩があったんだ。だけど、ばくち好きで破天荒な人でね。夢みたいな話をいっぱい聞かされた揚げ句に、借金を背負わされた。今思えばオレの借金人生の始まりだったよ。

 豊登とは金銭感覚が合わず決裂。翌67年2月、東京プロレスも倒産した。設立から1年、旗揚げ戦からわずか4カ月足らずの短命で、猪木の夢はあっけなく幕を閉じた。残ったのは豊登のつくった5000万円の借金だけだった。

 新たな団体をつくる金はない。ジャイアント馬場がエースとして君臨する日本プロレスに復帰するわけにもいかない。23歳の猪木は路頭に迷った。しかし、すでにプロレス界では、猪木は1年前の若手選手ではなかった。日本プロレスは「馬場の引き立て役」ではなく「馬場との2枚看板」として猪木獲得に乗り出した。

 日本プロレスから復帰を説得された。米国修業から帰国した1年前とは対応がまるで違っていた。苦悩する猪木との交渉に、日本プロレスのコミッショナーで自民党副総裁だった川島正次郎氏が仲介。「日本のプロレスの発展のため、小異を捨てて大同に就け」と諭されたという。

 猪木 ラッキーだったのは救済者が出てきたことだった。スポンサーの人たちも「日本の財産なんだから、ここでつぶれるな。将来のプロレスを背負う人間なんだから」と日本プロレスとの関係を取り持ってくれた。日本プロレスも、おれのプライドを傷つけないようにしてくれた。負け犬のように扱わず、温かく迎えてくれたんだ。

 何よりも最大のライバルだった馬場から復帰を歓迎されたことで、迷いはなくなった。猪木は「プロレス界発展のために思い切って日本プロレスに復帰する」と同年4月、わずか1年で日本プロレスに復帰した。結果的に大スキャンダルが新たな道を切り開いた。

 復帰発表の翌日、東京・後楽園ホールでワールド・リーグ戦の前夜祭が行われた。猪木は、デストロイヤー、ブッチャーに襲われる馬場を救出するため、背広姿でリングに乱入した。2人はがっちりと握手。敵対心を封印した馬場・猪木のBI砲時代が幕を開けた。【田口潤】

[2006年9月21日11時12分]



▼プロレスの証言者 アントニオ猪木(9)
<第2章〜宿命のライバル馬場9〜>
http://www.nikkansports.com/battle/f-bt-tp0-20060922-93468.html

BI砲、爆発的人気

 アントニオ猪木の日本プロレス復帰とともに、力道山全盛時以来のプロレスブームが到来した。67年(昭和42年)5月、猪木はジャイアント馬場と初めてタッグを組んだ。60年9月の同日デビューから6年8カ月。紆余(うよ)曲折を経て、宿命のライバルはついにリングの上で合体した。当時、馬場29歳、猪木24歳。若さと強さを備えた最強コンビは「BI砲」として爆発的人気となった。同8月の大阪球場大会には2万人の大観衆を集めた。

 同年10月31日、ワット、タイラー組からインターナショナルタッグ王座を奪取した。猪木がタイラーの動きを封じている間に、馬場がワットに16文キックをたたき込む、抜群の連係を見せた。以来、BI砲の快進撃が始まった。71年12月にコンビを解消するまで、同タイトル戦の戦績は31勝3敗。まさに史上最強のタッグチームだった。しかし、BI砲のアントニオ猪木は、「燃える闘魂」といわれた本来の姿をあえて隠していたという。

 猪木「タッグは絶妙な女房役が必要。だからオレは馬場さんの女房役に徹した。相手を立てて控えることも多かった。だからこそ息の合ったタッグになった。信頼関係もあったしね」。

 当時の試合形式は60分3本勝負だった。王座獲得から11度防衛した第1次王者時代、フィニッシュ役は馬場の11回に対して猪木は半分以下の5回しかなかった。猪木は同期とはいえ5歳上の馬場を立てた。当時の馬場は日本プロレスの絶対的エース。2枚看板とはいえ、猪木には東京プロレスからの「出戻り」という負い目もあった。

 その微妙な力関係は長くは続かなかった。伸び盛りの猪木は、試合ごとに力を付けていった。吉村道明とのコンビでアジアタッグ王座も保持。68年春のワールド・リーグ戦では、馬場に次ぐ日本人ナンバー2の座を確保。そして翌69年の同大会で馬場を勝ち点でおさえ、初優勝を飾った。実力でも、実績でも完全に馬場と肩を並べた。入門から9年。常に後塵を拝してきたライバルに、ついに追いついた。ファンの人気も「人気の馬場、実力の猪木」と2分していた。このころ猪木の心に強い葛藤(かっとう)が生じていたという。

 猪木「依然としてタッグでは馬場さんを立てていた。エゴを隠して戦い続けていた。それが、いつの間にか人気でも自分の方が上になってきた。次第に我慢できなくなって、不満がたまってきた」。

 東京プロレス時代、馬場への挑戦状を出したことがあった。その当時のライバル意識が心の底で再び沸き上がってきた。しかし、猪木の気持ちとは裏腹に、BI砲人気はさらに加熱、全国区へと広がっていった。猪木がワールド・リーグ戦を制した69年、日本プロレスは独占放送していた日本テレビに加え、NET(現テレビ朝日)も参入。前代未聞の1団体2局放送時代に突入した。これが、猪木と馬場を決裂させる火種になった。【田口潤】

[2006年9月22日15時45分]



▼プロレスの証言者 アントニオ猪木(10)
<第2章〜宿命のライバル馬場10〜>
http://www.nikkansports.com/battle/f-bt-tp0-20060923-94076.html

切磋琢磨から敵対関係への転化

 アントニオ猪木とジャイアント馬場。切磋琢磨(せっさたくま)したライバル関係は、いつ敵対関係へと転化したのか。猪木は71年(昭和46年)春のワールドリーグ戦だったと明言する。馬場、猪木、ザ・デストロイヤー、ブッチャーの4人が決勝に残った。当時、猪木は「馬場との直接対決」を切望していた。その野望を実現する絶好のチャンスだった。

 しかし、当時の日本プロレスには日本人同士、外国人同士は対戦させないという暗黙のルールがあった。結局、猪木はデストロイヤーと対戦し、両者リングアウトで勝ち点を逃す。一方、馬場はブッチャーを倒し、勝ち点1を獲得。5度目の優勝を決めた。この瞬間、猪木にとって馬場は、ライバルから打ち倒すべき敵になったという。決勝後の控室で、猪木は馬場の保持するインターナショナル王座への挑戦を表明した。完全なスタンドプレーだった。

 猪木「何で馬場と直接戦わせないんだと、不満が爆発したんだよ。タッグはエゴを隠して戦っていたけど、だんだんそれも難しくなってきた。我慢の限界だった。早く戦って決着をつけたかったんだ」。

 馬場との「BI砲」コンビは爆発的な人気を誇っていた。通算成績31勝3敗の史上最強タッグといわれた。猪木は人気でも実力でも馬場をしのぐ存在に成長していた。しかし、シングルに関しては、2人の境遇は対等ではなかった。馬場は亡き師匠の力道山が20回防衛したインターナショナル王座を3度戴冠し、計49回の防衛に成功。猪木は同王座への挑戦すら許されなかった。

 挑戦表明の裏には「勝てる」という確信があった。69年春のワールド・リーグ戦で初優勝。同12月には、当時世界最強といわれたNWA世界王者ドリー・ファンク・ジュニアに60分フルタイムドローの死闘を演じた。くしくも翌日に挑戦した馬場も同じ結果に終わっている。71年3月にはUN王座も獲得。「馬場と猪木はどちらが強いのか」。ファンの間でも議論は沸騰した。しかし、猪木の挑戦表明は、当時のコミッショナー判断で、時期尚早と却下された。

 猪木「だって、オレは昔から道場で、馬場さんに負けたことがなかった。一番強い者がベルトを持つ。当たり前のことを証明したいだけだった。東京プロレス時代から挑戦状を出したけど、馬場さんには人徳、政治力があった。最後の願いもかなわず、こんなプロレスでいいのかと思ったよ。ファンの期待を裏切ってるじゃないかって」。

 馬場と日本プロレスへの不満が、不信感へと変わりはじめた。さらに1団体2局放送といういびつな形態が、2人の対立に拍車を掛けた。NETが猪木中心、日本テレビは馬場中心に放送しはじめた。両局のし烈な視聴率争いもあり、団体内の選手、社員も、自然と猪木派、馬場派に分かれた。これまで平静を装ってきた馬場も、猪木の言動に対して不信感を抱くようになっていた。

 猪木「入門からずっと馬場さんはオレのことを気にも留めてなかっただろう。5歳の年齢差、入門から圧倒的な差もついていたしね。オレが日本プロレスに戻ったころから、ようやくライバルとして認めたんじゃないか」。

 リングの上でBI砲の快進撃は続いていた。しかし、馬場と猪木の対立はもはや修復不可能だった。【田口潤】

[2006年9月23日15時18分]


▼プロレスの証言者 アントニオ猪木(11)
<第2章〜宿命のライバル馬場11〜>
http://www.nikkansports.com/battle/f-bt-tp0-20060924-94389.html

孤立、選手生命の危機

 アントニオ猪木の馬場への挑戦表明は、会社側に却下された。以降、猪木の日本プロレスへの不信感は急速に増した。当時の幹部らは、BI砲の人気にあぐらをかき、新たな挑戦を放棄している…。考えただけで怒りが込み上げた。さらに信じられないうわさを耳にした。「幹部らは会社の金庫から札束を抜いて銀座で豪遊している」。丼勘定の経営体質に、ついに堪忍袋の緒が切れた。

 猪木「選手は体を張って、命を懸けて戦っていた。オレたちの血と汗が、訳の分からないことに使われていると思うと我慢できなかった。特に一部幹部の不正は絶対に黙認できなかった。あのときは健全な経営に戻すために、馬場さんとも再び手を結んだんだ」。

 71年(昭和46年)11月5日、女優倍賞美津子との挙式の3日後、猪木は行動を起こした。都内ホテルに、選手会長だった馬場を呼び出し、日本プロレスの改革の必要性を切々と説いた。猪木の挑戦要求で2人の関係は悪化しつつあった。しかし、馬場自身も幹部の経営には不満と不安を抱いていた。改革の一点で考えが一致した。リング上の感情を一時的に棚上げして、団結を約束し合ったという。

 「経営内容を改善しなければ、全選手が退団する」。選手から署名を集め、日本プロレスに嘆願書を提出した。この時点で、選手たちは一致団結していた。しかし、猪木はあまりに急ぎすぎた。側近だった計理士とともに臨時株主総会を招集。一部幹部の追放を提案した。この強引な行動に馬場は疑問を持った。一枚岩が揺らぎはじめた。馬場をはじめ改革案に賛成していた選手たちが、会社側の説得に次々と考えを変えた。行動派の猪木と慎重派の馬場。性格の違いが、運命の分かれ目になった。ついに2人の関係はリングの外でも決裂した。

 猪木「あるレスラーが幹部に『猪木が日本プロレスを乗っ取ろうとしている』と密告したんだ。会社側は『猪木のクーデター』と宣伝し、馬場さんも含めてみんな会社側に寝返ってしまった。オレは、もう走りだしたものは戻れないから、突っ走るしかなかった」。

 71年12月6日、猪木は選手会から除名された。同13日には日本プロレスから「乗っ取りを謀り、行動に移していた」と永久追放処分を受けた。1カ月前、女優の倍賞美津子と結婚式を挙げていた。当時の史上最高額1億円の超豪華式。まさに天国から地獄に突き落とされた。

 猪木「あのときは幸せな気分も吹っ飛んだよ。仲間に裏切られたと、被害者意識にも苦しんだ。日本プロレスが出してくれるはずだった結婚費用もパー。祝儀もどこかにいっちゃって、また借金だけが残った」。

 東京プロレスが崩壊し、日本プロレスに復帰してから4年余り。再び猪木は孤立し、選手生命の危機に立たされた。【田口潤】

[2006年9月24日8時29分]



▼プロレスの証言者 アントニオ猪木(12)
<第2章〜宿命のライバル馬場12〜>
http://www.nikkansports.com/battle/f-bt-tp0-20060925-95037.html

信頼してくれる仲間

 日本プロレスから追放されたアントニオ猪木は社会から孤立した。「会社乗っ取り」の汚名を着せられ、マスコミから激しいバッシングを浴びた。今の亀田バッシングとは比較にならないほど悪人扱いされた。業界の独占企業からの解雇は、そのまま選手生命の危機でもあった。

 猪木「当時のマスコミはオレの悪口しか書かなかった。東京スポーツには『引退』とも書かれた」。

 孤立無援だった。さすがの猪木も弱気になった。しかし、あるスポーツ紙を目にしたとき、一筋の光明が差し込んだ。「猪木の追放」を喜ぶ選手の写真が載っていた。そこに浮かない顔をした数人の選手がいた。付け人だった藤波辰爾、木戸修、山本小鉄…。自分を慕い、信頼してくれた「猪木派」の若手たちだった。

 猪木「居場所がない感じて、うつむいていた。あの顔を見て、彼らが悩んでいることが分かった。裏切れないと思った。オレのことを信頼してくれていることが伝わってきたんだ」。

 急に腹の底から力がわいてきた。「自分を信頼してくれる仲間と、理想のプロレス団体を立ち上げよう」。良くもあしくも決断と同時に行動する性分。すぐに「猪木派」の若手に新団体への参加を呼びかけた。当時、藤波はまだ18歳。大分の実家にまで出向き、両親を説得した。

 最大の難題が資金だった。倍賞美津子との「1億円の結婚式」の借金が残っていた。スポンサーもいなかった。何よりも世間に流布された「会社乗っ取りを企てた悪者」のイメージが足かせになった。それでも猪木は持ち前の闘志と、行動力で約1500万円の資本金をかき集めた。

 猪木「結婚してすぐだったけど、毎朝6時に起きてスポンサー探しに駆け回った。1日10社は回っていた。夜も付き合った。その合間に練習していた」。

 当時の妻、倍賞美津子には今も感謝している。新婚生活をおくるはずだった東京・世田谷区上野毛の自宅を道場に改装。猪木は都内の倍賞の実家に居候した。日本プロレス追放から1カ月後の72年1月13日、「新日本プロレス」は株式会社としての登記手続きを完了。猪木をはじめ、山本、藤波、木戸、柴田、北沢。わずか6人でのスタートだった。

 猪木は新日本プロレス設立の創業精神に「プロレスリングの市民権確立」を掲げた。ショー的要素を排除し、格闘技色の強いプロレスを理想とした。「強い者が勝つ」「真っ向勝負」。日本プロレスで実現できなかった夢を追う舞台ができた。旗揚げ戦は同3月6日、東京・大田区体育館。猪木はメーンの相手として、プロレスの神様カール・ゴッチを招聘(しょうへい)した。

 当時48歳のゴッチの技術は超一流だった。グラウンドで常に先手を取られ、得意の卍固めもかわされた。最後は鮮やかな逆原爆固めでフォールされた。完敗した。しかし、駆け引きなしで、実力をぶつけ合えたことがうれしかった。

 猪木「敗れたのになぜか満足感があった。オレの求める激しい戦いができたから。日本プロレスでできなかったものができた、という自信が生まれた。あの試合でプロレス界に新しい火がともった」。【田口潤】

[2006年9月25日12時9分]



▼プロレスの証言者 アントニオ猪木(13)
<第2章〜宿命のライバル馬場13〜>
http://www.nikkansports.com/battle/p-bt-tp0-20060926-95436.html

新日本プロレスを旗揚げ

 アントニオ猪木が理想を求めて新日本プロレスを旗揚げした。その4カ月後、ジャイアント馬場も日本プロレスを退団して全日本プロレスを立ち上げた。72年7月のことである。ここから日本のプロレス界は四半世紀に及ぶ2大団体時代へと突入した。2人の宿命のライバルは、敵対関係へと対立を深めた。

 団体の特色も対照的だった。猪木はストイックに「強さ」を追求するストロングスタイルを掲げ、異種格闘技戦にも力を入れた。一方、馬場は「明るく楽しく激しいプロレス」を標ぼう。海外との強いネットワークを活用して人気外国人レスラーを集めた。ファン層も真っ二つに割れた。猪木は当時、全日本のテレビ中継をいっさい見なかったという。

 猪木「強い人間がトップを取るのは当たり前。強さは基本だ。でも馬場さんの全日本は全然路線が違っていた。ファンは楽しいかもしれないが、オレは『ふざけるな、あんなもの』という気持ちだった。視聴率でも新日本が勝っていた」。

 路線の違いは2人のたどってきたプロレス人生を象徴していた。猪木は力道山に優遇される馬場にしっと心を燃やし続けた。その根底には「自分の方が強い」との自負心があった。だから新団体では「実力至上主義」のプロレスの実現を目指した。一方、馬場には入門当時から日本人離れした209センチの肉体があった。恵まれた体格だからこそ、相手の技を受け止める余裕がある。だから強さだけでなく、相手の技を受け、ファンに見せる「受けの美学」を求めた。

 猪木「馬場さんだからできたプロレスがある。馬場さんはあの体があったから、極端にいえば、何もしなくても客を呼べた。体形、人徳などキャラクターで許されたところがあった」。

 両団体の旗揚げから3年たった75年12月11日。歴史的な興行戦争が起きた。この日、全日本は国際と組み、東京・武道館で「力道山十三回忌」の特別興行を開催した。レイス、ブッチャー、マードック、デストロイヤー…。外国人のオールスターメンバーがそろった。実は大会前に主催者は新日本にも参加を呼びかけた。その会見で馬場が「猪木君が参加した場合、私との対決の可能性もある」と初めて一騎打ちに前向きな発言をした。しかし、猪木は参戦を拒否。そして、新日本はあえて、同日に蔵前国技館で興行を開催。メーンの猪木−ビル・ロビンソン戦で、勝負を挑んだ。

 猪木「初めから全日本と国際の合同興行だった。新日本が全日本の軍門に下るわけにはいかなかった。メンバーの豪華さでは負けたかもしれない。だけど、オレは、どれだけいい試合をするかが、おやじ(力道山)の供養につながると思っていた」。

 アマレス経験のあるロビンソン戦は現在もファンの間で生涯ベストファイトとして語り継がれている。互いにカウント2・5を何度もはね返した。一進一退のプライドをかけた戦いが続いた。60分のフルタイムドロー。決着はつかなかったものの、ストロングスタイルの神髄を見せた。蔵前国技館を埋めた1万2000人の歓声はしばらく収まらなかった。

 猪木「ロビンソンとの試合は語り継がれる名勝負になった。おやじに喜んでもらえる試合ができたと思っている。今思うと馬場さんはある意味でオレのためにいてくれた。今になって考えればありがたい」。【田口潤】

[2006年9月26日9時31分 紙面から]


▼プロレスの証言者 アントニオ猪木(14)
<第2章〜宿命のライバル馬場14〜>
http://www.nikkansports.com/battle/f-bt-tp0-20060927-95882.html

仁義なき全面戦争

 アントニオ猪木は斬新な格闘技路線で、新日本プロレスを軌道に乗せた。80年ごろには観客動員数でも全日本プロレスをしのいでいた。しかし、当時の猪木に満足感はなかったという。商売敵として常に目の前に立ちはだかるジャイアント馬場の存在は、もはやリングの上のライバルではなく、排除すべき天敵になっていた。

 戦争を仕掛けたのは猪木だった。81年5月8日、新日本の川崎体育館大会に、アブドーラ・ザ・ブッチャーを登場させた。馬場、鶴田と抗争を繰り広げた、全日本の看板外国人レスラーを、予告もなく引き抜いた。「この世界にはルールがある」と激高した馬場に対して、新日本側は「ルールなどない」と宣戦布告。馬場と猪木の仁義なき全面戦争が火ぶたを切った。

 当時、新日本は藤波、長州力の第2世代が台頭、タイガーマスクの人気も沸騰し、黄金期を迎えていた。あえて「引き抜き」という過激な手段で、全日本にケンカを売る必要はないように見えた。なぜ猪木はそこまで「馬場つぶし」に執着したのか。根底には常に自分の上を歩んできたライバルに対するうっせきした反逆心があったという。

 猪木「今でこそマスコミはオレの話を聞いてくれるけど、昔は馬場さんがすべて良くて、猪木は全部だめといわれ、批判的にとられた。全日本の方が好意的に報道された。それに腹が立って、腹が立って…。畜生と思ってね」。

 新日本設立以降、日本プロレスの外国人ルートを継承した全日本から数々の圧力を加えられてきた。一方、新日本が人気で上回っても、世間的には温厚で人望もあった馬場の全日本が主流扱いされた。猪木はそれが我慢できなかった。初めてライバルを超える位置に立ったことで、一気に馬場を追い落とす決意を固めたという。

 ブッチャー引き抜きの5カ月後、猪木は全日本攻撃の二の矢を放った。10月9日の全日本の蔵前国技館大会の前日8日、同じ蔵前国技館で特別興行を開いた。「全日本プロレスをつぶすため、あえて前日に開催する」と宣言までした。どちらの興行も満員となり、全日本に実害はなかったが、猪木の馬場への敵がい心はそれほど深かった。

 しかし、馬場も黙ってはいなかった。同7月に猪木の宿敵だったタイガー・ジェット・シン、同12月には外国人エースだったスタン・ハンセンを新日本から引き抜いた。米国マットに太いパイプを持つ馬場の底力は想像以上だった。84年11月には、タイガーマスクの好敵手だったダイナマイト・キッドまで引き抜いた。

 猪木「キッドなんか、羽田からそのまんま馬場さんのところに行っちゃった。旅費はこっちで払っていたのにね。まあファンは楽しかったろうけど、オレらは『ふざけんな、あの野郎』と意地になっていた。まさに戦争だった。胃が痛む暇もなかった。走り続けていたからね」。

 結局、新日本はブッチャー、タイガー戸口、ディック・マードックを引き抜き、逆にシン、ハンセン、上田馬之助、チャボ・ゲレロ、キッド、デイビーボーイ・スミスを失った。結果的に猪木と馬場の興行戦争は、リングの中よりも過激な「大流血戦」になった。その後、両団体間に引き抜き防止協定が成立した。【田口潤】

[2006年9月27日8時59分]


▼プロレスの証言者 アントニオ猪木(15)
<第2章〜宿命のライバル馬場15〜>
http://www.nikkansports.com/battle/f-bt-tp0-20060928-96394.html

ジャイアント馬場が肝不全で急逝

 日本のプロレス界を二分した宿命のライバル史は、21世紀を前に唐突に幕を下ろした。98年(平成10年)4月4日、体力の限界を悟ったアントニオ猪木は、新日本の東京ドーム大会で引退した。55歳になっていた。それからわずか9カ月後の99年1月31日、還暦後も現役を続けていたジャイアント馬場が肝不全で急逝した。享年61歳だった。

 猪木「自宅のある米国で訃報(ふほう)を聞いた。病気のことは知っていたので驚きはなかったけど、ひとつの時代が終わったという意識はあった」。

 60年9月の同日デビューから40年近くに及んだ2つの巨星は、まるで示し合わせたようにリングから姿を消した。同期の盟友から、好敵手に変わり、ともに団体を背負ってからは商売敵として、憎悪むき出しでリング外で抗争を続けた。しかし、第一線を次世代に譲った90年代以降は、お互いかつてのギラギラした敵対意識も薄れていたという。

 猪木「そのころは、あまり馬場さんをライバル視することもなくなっていた。テレビで見ると立っているのがやっとで、この人はいつまで現役でやるんだろう? なんて思ったりね」。

 2人の因縁を物語る出来事があった。98年12月、馬場が急逝する1カ月前のことだった。都内のホテルで、猪木はもう何年も会っていなかった馬場と偶然擦れ違った。この時、すでに2人の間には以前のような緊張感はなかったという。当時、猪木は一足先に引退し、団体の経営からも手を引いていた。

 猪木「ホテルオークラで偶然ばったりと馬場さんに会ってね。『おまえはいいよな。好き勝手ができて』なんて言われたよ。結局、それが馬場さんとの最後の会話になったんだ」。

 80年代まで猪木は馬場を敵対視してきた。力道山からエース候補扱いされる馬場に対抗意識を燃やし、挑戦状も出した。興行戦争も仕掛けた。レスラー生命をかけた2人の戦争は、日本のプロレスを進化させたことも事実だった。異種格闘技戦をはじめ、ライバルを意識した斬新な企画は社会現象になった。猪木は今、馬場の存在が自分にとって決してマイナスではなかったと振り返る。

 猪木「オレと馬場さんは合わせ鏡だった。馬場さんは、ある意味で、オレのためにいてくれたのかもしれない。いなかったら、オレのキャラクターはもっと違っていたかもしれない。今になって思えば、ありがたいし、感謝しないとな」。

 猪木と馬場の2大巨頭時代の終えんとともに、プロレス界は低迷の一途をたどっている。かつての新日本と全日本のような対立構造が崩れ、団体が細分化され、選手の交流も頻繁に行われるようになった。その一方でリングの上は緊迫感を失い、大衆を引きつける斬新な企画も乏しくなった。選手の個性も薄れた。総合格闘技の台頭にも押されている。

 猪木「人気の格闘技界は、PRIDEとK−1が競い合っている。だけど今のプロレス界には対立構造がない。ライバルがいないのは不幸だよ。対抗する相手がいれば『ばか野郎』と頑張れるのに。馬場さんがいたから、オレも頑張れた部分はあるよ。あの団体をぶっつぶすという気持ちがエネルギーになったんだ」。

 プロレス黄金時代をけん引した宿命のライバルは、唯一無二の戦友だったのかもしれない。【田口潤】(第2章終わり)

 ※第3章「新日本と名勝負」は10月25日からスタートします。

[2006年9月28日9時23分]


▼第3章(最終章)に進む▼
プロレスの証言者 アントニオ猪木: 最終章〜新日本との名勝負〜
posted by プロレスの証言者 アントニオ猪木 at 00:31| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。