2006年11月03日

第1章〜アリと異種格闘技戦〜

日本中がプロレスに熱狂した。人気レスラーは国民的ヒーローだった。プロレス黄金時代を担った男たちの伝説に迫る連載「プロレスの証言者」をスタートする。名勝負の舞台裏、今だから明かす新事実…。さまざまな証言をもとに、プロレスの魅力を探る。証言者はアントニオ猪木(63)。第1章は、76年6月26日に日本武道館で行われたプロボクシング世界ヘビー級王者ムハマド・アリ(米国)との異種格闘技戦にスポットを当てる。
▼プロレスの証言者 アントニオ猪木(1)
<第1章〜アリと異種格闘技戦1〜>
http://www.nikkansports.com/battle/p-bt-tp0-20060823-79423.html

ふざけるなっ

 「世紀の凡戦」が30年の歳月を経て「伝説の一戦」として脚光を浴び始めた。今年6月26日、猪木−アリ戦の30周年記念パーティーが開催された。初めて行われた記念行事に、当時の関係者ら約300人が集まった。実況を担当した元テレビ朝日の舟橋慶一氏が振り返る。「余裕だったアリの顔が、次第に緊迫と戸惑いの色に変わっていくのが分かった…」。

 当時、ボクシング世界ヘビー級王者と人気プロレスラーの格闘技世界一決定戦は酷評された。「世界に笑われた」「茶番劇」「ペテン」…。メディアは徹底的に非難した。猪木はリングにあおむけになって戦い、アリはその周りを舞い続けた。結果は15回引き分け。必殺技も、KOパンチも飛び出さなかった。最後までかみ合わない試合に、世間は戸惑い、怒り、笑った。初めて接する異種格闘技戦を理解することができなかった。

 猪木「あの試合を当時よく『お遊び』といわれた。いまだに『ショーだったのか』と聞く人がいる。ふざけるなっ。お遊びで、あそこまで足がはれるか」。

 試合翌日、猪木の右足の甲は3倍にはれ上がった。エックス線写真を撮るとはく離骨折が判明した。3分15ラウンド。ひたすらアリの足を蹴り続けた。この蹴りは後にアリキックと呼ばれるようになる。それほど徹底的だった。

 一方、アリは猪木よりも重傷だった。試合後、宿泊先のホテルのエレベーター内で崩れ落ち、立ち上がれなくなった。左足は内出血で真っ赤にはれ上がった。帰国後、血栓症で1カ月間も入院した。リングの中の主役2人は限界まで肉体を削り合っていた。

 実は批判を浴びた猪木の戦法にはお手本があった。戦前の大ベストセラー「姿三四郎」である。故黒沢明監督によって映画化もされた名作。その中に柔道家の三四郎が、米国人ボクサーと戦う場面が出てくる。三四郎は寝ながら攻撃のチャンスをうかがい、見事にボクサーを倒した。

 猪木「『姿三四郎』は何度も読み返した。ようは相手の土俵に立たないってこと。オレはレスラー。立って戦えばパンチを受ける。腕より長いのは何か。それは足だろう」。

 しかし、猪木は三四郎にはなれなかった。異種格闘技戦ゆえの細かいルールが、攻撃の選択肢を極端に狭め、試合から見栄えもを奪った。アリの頭部への攻撃も禁止。グラウンドも時間制限があった。事実上、猪木に許された攻撃は、寝た状態からのキックしか残されていなかった。

 猪木「立って蹴ったらだめだとか、アリ陣営が細かいルールを要求してきた。もうルールなんか関係ねえと、パンチを食わないこと、それだけに1点集中したんだ」。

 21世紀に入ってから格闘技ブームが到来した。プロレスラー、ボクサー、柔道家、空手家…。あらゆる競技の著名格闘家が、同じリングの中で戦いを繰り広げる。不完全燃焼の凡戦に終わる試合も珍しくない。しかし、猪木−アリ戦のような批判はない。それが異種格闘技戦であることを、今のファンは理解しているからだ。そして、そんな時代がきてもなお現役のボクシング世界ヘビー級王者を格闘技戦のリングに引っ張り出したのは猪木だけだ。だから今、「世紀の凡戦」は伝説として光を放ち始めた。

 猪木「なぜ今ごろアリ戦の評価が高まるのか。それはアリ戦が異種格闘技戦の始まりだったからだ。交わることのない常識の枠を取っ払った。垣根がなくなって格闘ロマンが現実化した。そこが今、評価されているんだ」。【田口潤】

[2006年8月23日9時29分 紙面から]


▼プロレスの証言者 アントニオ猪木(2)
<第1章〜アリと異種格闘技戦2〜>
http://www.nikkansports.com/battle/p-bt-tp0-20060824-79946.html

アリ戦をなぜやったのか

 アントニオ猪木はなぜボクシング世界ヘビー級王者ムハマド・アリとの対戦を企てたのか。当時、猪木は「プロレスが格闘技最強ということを証明するため」と公言していた。その言葉にうそはない。ただ心中は発言ほど、きれい事ではなかった。30年を経て猪木の口から本音が漏れた。

 猪木「アリ戦をなぜやったのか。それはプロレスへの劣等感。オレらの時代は八百長論ばっかり。面と向かって『おまえ詐欺師だろう』と言われたこともあった。こん畜生と。だから誰もが認めるアリと戦えば、プロレス全体のステータスが上がると考えた」。

 75年3月、アリの小さな新聞記事を見つけた時、胸が高鳴った。「アリが東洋人の挑戦者を求めている」。当時のアリは世界最強といわれた現役の世界ヘビー級王者であり、人種差別と戦う社会的ヒーローだった。もし対戦が実現すれば社会にプロレスを再び認知させることができる。新日本プロレス取締役の新間寿氏に猪木は言った。「何か仕掛けようぜ!」。アリ戦にプロレスの未来をかけた。

 力道山全盛の昭和30年代、プロレスは国民的な人気を誇っていた。その偉大な師の付け人として、猪木はプロレスラーの誇りをはぐくんだ。ところが力道山の死後、プロレス人気は凋落(ちょうらく)した。時同じくしてプロ野球に長嶋、大相撲には大鵬という巨星が登場。ショー的要素も秘めていたプロレスは、次第に色眼鏡で見られるようになった。人気レスラーだった猪木も例外ではなかったという。

 猪木「すし店である客が『プロレスは八百長だから』と話していた。時効だから言うけど、その客を店からたたき出したよ。新日本旗揚げのころもリングサイドの客から『八百長』といわれて怒鳴り合った。そんな世間の目とも戦ってきたんだ」。

 72年1月、猪木は新日本プロレス設立の創業精神に「プロレスリングの市民権確立」を掲げた。リングではショー的要素を排除して、格闘技色を前面に打ち出した。テーズ、ゴッチ、ロビンソンといった世界の実力派レスラーを招聘(しょうへい)。ストロングスタイルにこだわった。若手がパフォーマンスをしたり、気を抜いた試合をすれば、リングに駆け上がって竹刀を振り下ろした。

 猪木のアリへの対戦要求を、マスコミは「壮大なる夢」と報じた。実現をだれも信じていなかった。「ほら吹き」「売名行為」と冷笑する人たちもいた。だが、猪木だけは本気だった。75年6月、決戦の1年前にアリ来日の情報が舞い込んだ。「このチャンスは絶対に逃さない」。プロレスの地位向上をかけた1年に及ぶ長い戦いが火ぶたを切った。【田口潤】

[2006年8月24日9時24分 紙面から]


▼プロレスの証言者 アントニオ猪木(3)
 <第1章〜アリと異種格闘技戦3〜>
http://www.nikkansports.com/battle/p-bt-tp0-20060825-80434.html

アリ、猪木の挑戦を受ける

 1975年6月9日。この日、アントニオ猪木は格闘技界に大きな風穴を開けた。ムハマド・アリ戦の1年前。飛行機の乗り継ぎのため日本に立ち寄ったアリが、都内のホテルで日本メディアへ会見に応じた。この会場に猪木の指令を受けた新日本プロレス関係者が潜入。会見中に突然、猪木の「応戦状」を読み上げた。

 「あらゆる格闘技の王者はプロレスリング。戦う機会があれば10分でリングに眠らせてみせる。いつ、いかなる場所でも、あなたの希望通りに戦う準備ができている」。

 挑戦状にしなかったのは、アリが以前「誰か東洋人で、オレに挑戦するやつはいないのか」と発言していたからだ。応戦状はチャンピオンベルトを巻いた猪木の写真が添えられ、アリに手渡された。

 作戦は大成功だった。突然の出来事にアリは激高した。「INOKI WHO! オレは5分で猪木という男を眠らせる。1発でペリカンのようなあごを砕く」。アリが猪木の応戦を受けた瞬間だった。

 猪木「アリがクアラルンプールでの防衛戦前に東京で1泊していた。当時のオレの行動を売名行為というやつらもいた。雑音は気にしなかったが、見てろよという気持ちはあった」。

 日本のマスコミは猪木の、いかにもプロレス的なやり方に冷ややかだった。しかし、海外の反応は違っていた。ニュースは外電で全世界に流れた。「アリ、猪木の挑戦を受ける−」。東京発の報道は「最強」をうたう世界の格闘家たちに衝撃を与えた。当時、ボクシング、柔道、空手など各格闘技の王者たちが、それぞれ「世界一」を主張していた。競技の壁を越えて戦うという発想はなかった。その常識が根底から覆った。

 アリに対して「プロレスこそ世界最強」を主張した「INOKI」の名前は一気に世界に広まった。そして予想外の副産物が生まれた。72年ミュンヘン五輪の柔道で2階級を制したウイリアム・ルスカ(オランダ)が、猪木との対戦に名乗りを上げたのだ。

 猪木「一般紙はプロレスを報じない。プロレスごときは書かないという風潮だった。それが柔道の金メダリストなら書かざるを得ない。アリ戦の前のルスカ戦で、世間に異種格闘技への認識ができた」。

 76年2月6日、日本武道館。猪木は異種格闘技の第1弾としてルスカと対戦した。腕ひしぎ逆十字固め、裸絞めに苦しみながらも、バックドロップ3連発でTKO勝ち。異種格闘技戦をアピールする最高のプロモーションになった。

 「アリ、猪木の挑戦を受ける−」。格闘技のボーダーレス化は、まさしくこの一報から始まった。21世紀へと続く格闘技ブームの発火点でもあった。

 猪木「格闘技の原点、生命の木がある。力道山が根っこ。木の始まりが猪木。そこから枝分かれして新日本、PRIDE、K−1がある。イラストを描いても面白い」。【田口潤】

[2006年8月25日9時19分 紙面から]


▼プロレスの証言者 アントニオ猪木(4)
<第1章〜アリと異種格闘技戦4〜>
http://www.nikkansports.com/battle/p-bt-tp0-20060826-80875.html

アリが猪木と仮契約

 1000万ドル(当時約30億円)。アントニオ猪木がムハマド・アリから最初に要求されたファイトマネーである。75年当時の公務員の初任給が8万5000円だから、今なら100億円近い大金になる。新日本プロレスの当時の年商は20億円に満たなかった。常識的に考えれば実現の可能性はない。それを可能にしたのは、後先を考えない猪木の「非常識」な性格だった。

 猪木「夢に走る。採算なんて考えていないよ。ただやることに一点集中。宵越しの金は持たない。オレにはそんな破天荒な部分がある。そこが評価され、批判される部分なんだ」

 通常なら金額を聞いただけで引き下がる。仮に実現できたとしても、返済不能な借金を抱え込むことになる。しかし、猪木はまるで意に介さなかった。アリのプロモーターに執拗(しつよう)に食い下がり、値下げ交渉を続けた。提示額は600万ドル(約18億円)まで下がった。それでも膨大な金額に変わりはない。集金のあてもない。しかし、猪木はこの時点で強引に仮契約にサインした。76年2月16日、ルスカ戦の10日後だった。

 猪木「夢だけを見て、金はあとからついてくるってね。でも、今振り返ると(仮契約できたのは)必然だった。実はアリは入信していたブラックモスレムという宗教団体の運営資金が必要だった。相手もオレの夢に乗る必要があった」

 猪木の性格は経営者としては失格かもしれない。レストラン経営、環境事業などで失敗も繰り返した。しかし、アリ戦では、その破天荒な性格と、夢を夢に終わらせない執念が、運を呼び込み、不可能を可能にした。採算度外視で夢を追い続ける姿は、窮屈な実社会に生きるファンの共感を呼んだ。それが猪木をカリスマへと押し上げた。

 猪木以外に現役のボクシング世界ヘビー級王者を異種格闘技戦のリングに上げた格闘家はいない。猪木−アリ戦を超えるビッグマッチを企画したものさえいない。プロレス人気が下降した90年代後半、猪木は現状を打開させようと蝶野と武藤に言ったことがある。「WWEをぶっつぶしてみろよ」。2人の答えは「そんなことできませんよ」だったという。

 猪木「あり得ない夢を持つ人がいない。先に何でも計算してしまう。だから、もう1歩踏み出せない。そこが今のプロレス、格闘技の面白くないところ。まさに『ばかになれ』だが、高い理想がなければ、棚ぼたもないし、向こうから何もやってこないんだ」

 「アリが猪木と仮契約」の一報は、米国のAP通信を通じて全世界に打電された。猪木の破天荒な性格は、着実にアリをリングへと追い詰めていった。【田口潤】

[2006年8月26日8時10分 紙面から]


▼プロレスの証言者 アントニオ猪木(5)
<第1章〜アリと異種格闘技戦5〜>
http://www.nikkansports.com/battle/p-bt-tp0-20060827-81349.html

全日本にさらに大きな差をつけたい

 アントニオ猪木が異種格闘技戦でムハマド・アリへ支払うギャラは600万ドル(当時約18億円)だった。交渉の末に約12億円の値下げに成功したとはいえ、とても支払える金額ではない。仮契約から1カ月後の76年3月の調印式で支払う手付金180万ドル(当時約5億4000万円)も手元にはなかった。

 猪木はなぜそこまでしてアリ戦に執着したのか。夢への投資−。プロレスの地位向上のため−。当時はそんな言葉で理由を語った。それも本音だった。しかし、もう1つ大きな訳があった。30年たった今、猪木が明かした。

 猪木「全日本にさらに大きな差をつけたいという気持ちもあった」。

 ジャイアント馬場への強いライバル心が根底にあった。72年に旗揚げした猪木の新日本と馬場の全日本は、当時し烈なファン争奪戦を繰り広げていた。新日本は猪木とタイガー・ジェット・シン、ストロング小林の死闘で人気が上昇。一方、全日本は世界最高峰のプロレス団体NWAに加盟。太いパイプを使って人気外国人選手を招聘(しょうへい)してファン層を拡大していた。視聴率、観客動員数で常に比較されていた。

 アリに支払う18億円のうち、9億円は全米170カ所で試合を中継するクローズドサーキットの収益で賄えることが判明。それでもまだ8億円以上も足りなかった。金策のため猪木はスポンサーを募集するための文書を作成した。文面にはこう明記されていた。

 「アリと戦えば、猪木の知名度が上がり、新日本の人気も上がる。(馬場の)全日本にも圧倒的な差をつけられる」。

 猪木「当時人気は6対4で新日本が勝ってたが、さらに差をつけ、8対2までに引き離したいという気持ちがあった」。

 猪木は毎晩のように東京の銀座、大阪のキタなどで、企業のトップと飲み明かした。新日本の社員にも「猪木、新日本の名前を世界に広めるチャンス。長期的にはプラスになる」と訴え、1口100万〜500万円の協力金を得た。身を削るような金策は成功した。テレビ朝日と東京スポーツで合計約1億8000万円を拠出。3億円もの大金を現金で出す大阪の不動産業者も現れた。

 「みんながオレの大きな夢に乗ってくれた」。不可能と思われた180万ドルの手付金は何とか準備できた。やがて米・ニューヨークでの調印式と会見が正式決定した。

[2006年8月27日9時15分 紙面から]



▼プロレスの証言者 アントニオ猪木(6)
<第1章〜アリと異種格闘技戦6〜>
http://www.nikkansports.com/battle/p-bt-tp0-20060828-81900.html

パンチは知らなかったからね

 至近距離から投げられたピンポン球をよける。先端にグローブを付けた竹刀の突きをかわす。亀田3兄弟のユニーク練習メニューとしてすっかり有名になった。この特訓を30年前に実践していたのがアントニオ猪木である。実はムハマド・アリ戦の前に亀田兄弟と全く同じメニューで練習していた。

 猪木「ピンポン球投げたり、竹刀を突いたり、いろいろやった。亀田の練習なんか昔からやっているよ」

 内容は亀田よりも過激だった。ボクシングの世界ヘビー級王者の繰り出すパンチへの恐怖心を克服するため、直前のパラオ合宿では、竹刀に変えて本物のモリを使った。現地の集落の長に、魚を突くモリを借り、若手に自分の体を狙わせる。若手がたじろぐと「本気で突いてこい」と命令した。命懸けの特訓で、ディフェンス技術を磨いた。

 ルールは3分15回とボクシング式のラウンド制。ジムでの練習もボクシング仕様へと転換した。1分間50回のスクワット後、縄跳びを3分。それを1分間のインターバルを挟んで10ラウンド続けた。金子ジムの日本人ヘビー級ボクサーとは100ラウンド以上のスパーリングをこなした。プロレスを全休して、アリ対策に打ち込んだ。

 猪木「組んだら自信はあったけど、パンチは知らなかったからね。でも自分のパンチで日本人ヘビー級ボクサーをふらつかせたときは自信になった」

 キックを学ぶため、空手の極真会館の大山倍達館長にも「弟子入り」した。猪木の練習には鬼気迫るものがあった。アリに勝つために、あらゆる技術を、すべて吸収するつもりだった。当時、新日本取締役だった新間寿氏は「猪木は豪放磊落(らいらく)に見えて、実は気が小さい。怖いから練習する」と振り返る。

 猪木「人間せっぱつまれば、いろんなことを思い付くもの。それだけ必死だった。練習のハードルを高くすることで、自信をつけたんだ」

 そのころ、アリの近況が飛び込んできた。アラビアの怪人ザ・シーク、かみつき魔といわれたフレッド・ブラッシーら、日本のプロレスを知り尽くした実力派プロレスラーとスパーリングをしているという情報が伝わってきた。この一報を聞いた猪木の練習は、さらに熱がこもった。【田口潤】

[2006年8月28日8時40分 紙面から]


▼プロレスの証言者 アントニオ猪木(7)
<第1章〜アリと異種格闘技戦7〜>
http://www.nikkansports.com/battle/p-bt-tp0-20060829-82275.html

想像を超えた不安と恐怖

 「10分で眠らせる」「いついかなる場所でも倒す」「プロレスこそ最強」。ボクシング世界ヘビー級王者ムハマド・アリとの決戦を控えたアントニオ猪木の発言は強気一辺倒だった。メディアの前では常に自信に満ちた顔で、相手を挑発し続けた。しかし、本心はまるで違った。想像を超えた不安と恐怖に襲われていた。76年6月16日、アリ来日とともに肉体にまで異変が起きた。

 猪木「アリが来日して、さすがにプレッシャーを感じてね。なぜかオレの左肩が上がらなくなった。グラスも持てない状態だった。これは大恥をかくと焦ったよ」。

 原因は分からなかった。強気発言の裏で、敗北どころか、試合中止まで頭をよぎった。不安で仕方なかった。知人に紹介されたある宗教団体の教祖に相談し、治療を受けた。不思議なことに、次第に不安な気持ちが和らぎ、左肩の調子も良くなった。ところが、教祖にアリ戦を占ってもらったのがいけなかった。

 猪木「『アリの守護霊は強い。パンチ1発受けたら目がつぶれますよ』と言われた。肩は良くなったのに、また新たな恐怖心が芽生えてしまった」。

 来日したアリの情報にも、心が乱れた。「重さ1キロの鉄の輪を足にはめて、10キロを走った」と知らされて、不安感を募らせた。一方で「アリがプレッシャーで手が震えてジュースも飲めなかった」と聞いてホッとする。そんな繰り返しだった。「いろんな情報に惑わされた」と猪木は当時を振り返る。

 仏壇に水をあげ、手を合わせる日々が続いた。食事ものどを通らなくなった。知人から送られたニンニクの茎の漬物を食べ、マグロの中落ちを詰め込んで、体力を維持した。アントニオ猪木も人間だった。30年たった今だからこそ明かせるエピソードだった。

 猪木「人間はどんなに強がったって、弱い存在。だから神に頼ったりする。今でこそ、いい思い出、いい体験だったと言えるけど、当時のストレスはすごかった。結局、たどり着いた結論は、練習するしかないということ。練習しているときだけは無心になれた」。

 あるとき猪木は不安感を取り除くため、アリに勝つイメージだけを頭に描くことを思い付く。「オレは5回以内にアリを倒す」と何度も自分に言い聞かせた。80年代後半から日本のスポーツ界に浸透し始めるイメージトレーニングを、猪木は10年も前に、自己流で実践していた。【田口潤】

[2006年8月29日9時24分 紙面から]



▼プロレスの証言者 アントニオ猪木(8)
<第1章〜アリと異種格闘技戦8〜>
http://www.nikkansports.com/battle/p-bt-tp0-20060830-82740.html

寝て戦う以外の選択肢がなかった

 なぜアントニオ猪木はアリ戦を寝たまま戦ったのか。当時、試合を観戦したファンの目には、ボクシング世界ヘビー級王者のパンチを警戒した消極的な戦法に映った。「飛び込む勇気がない」と批判する声もあった。しかし、その見方は正確ではない。不利なルールに縛られ、猪木は寝て戦う以外の選択肢がなかった。

 ある必殺技が、猪木を袋小路へと追い込んだ。76年6月21日、決戦5日前の公開練習が東京・後楽園ホールで行われた。猪木は藤原喜明、木村健吾らに強烈な張り手を見舞い、さらにジャンプして木村の後頭部にキックを浴びせた。得意の延髄斬りだった。これを見たアリ陣営が翌日になってルール変更を強硬に要求してきた。

 猪木「延髄斬りを見せたら、アリが『冗談じゃないよ』という感じでね。『蹴りは一切ダメだ』とか細かいことを言ってきたんだ」。

 ルールは1カ月前に合意していた。グラウンドでの攻撃が制限されるなど、すでにレスラーに不利なルールだった。それが試合4日前になってさらに理不尽な修正が加えられた。(1)アリの頭部への攻撃禁止(2)空手チョップ禁止(3)立った状態でのキック禁止。猪木は立ち上がっても何もできず、パンチを受けるだけだ。

 プロレス技が出せなければ異種格闘技戦ではなく、ハンディキャップマッチにすぎない。勝ち目はない。しかし、アリ陣営は強硬だった。ルールが修正されなければ米国に帰国すると主張した。当時、新日本の取締役だった新間寿氏は「とんでもないルールだ。試合を中止にしましょう」と猪木に進言したという。だが、猪木はアリ陣営の主張をすべて受け入れた。

 猪木「ここでアリに帰られたら、今までの苦労がすべて水の泡になる。何が何でもリングに上げる。上げてしまえば、必ず勝てると思っていたから。自分は相手が条件を付けてきたときに、冗談じゃない、できない、じゃなくて、まず実現させることに重きを置いてきた」。

 不利な条件下でも、ハンディを抱えても戦う。その勇気があったからこそ、猪木は格闘史に偉大な伝説を刻むことができた。敵地でのペールワンとのケンカ試合、チョチョシビリとのノーロープマッチ…。その後の格闘技戦でもたびたび相手の土俵で戦いを挑んだ。アリ戦前、もしこの極めて不公平なルールがファンに認識されていれば、試合の評価もまた違ったものになっていたかもしれない。【田口潤】

[2006年8月30日9時29分 紙面から]



▼プロレスの証言者 アントニオ猪木(9)
<第1章〜アリと異種格闘技戦9〜>
http://www.nikkansports.com/battle/p-bt-tp0-20060831-83267.html

オレは台本通りが嫌いだ

 76年6月23日、猪木−アリ戦3日前の調印式が都内で行われた。この「前哨戦」の舞台で、アントニオ猪木は何ともユニークなパフォーマンスを演じた。「腕をへし折る」の意味を込めて、片腕をかたどったギプスをアリにプレゼントしたのだ。試合前のパフォーマンスは、当時のボクシング界ではアリの専売特許だった。完全に機先を制せられたアリ陣営は激怒。会場は乱闘騒ぎへと発展した。

 最近、WBA世界ライトフライ級王者の亀田興毅が、試合前の会見で同じようなパフォーマンスを演じて有名になった。K−1のボブ・サップをはじめ、試合前の派手な演出は、相手を威嚇するだけでなく、興行を盛り上げるための手段として格闘技界ではすっかり定着している。それを猪木は30年前に実践していた。

 猪木「調印式、計量とすべてが興行の宣伝になる。今では一般的な手法だけどね。ただオレの場合はパフォーマンスではなく、すべて本気だったから視聴者にも伝わったんだろう」。

 実は「ギプス」は前ふりにすぎなかった。調印式で猪木はアリに1枚の紙を突き付けた。「試合の賞金、収入は、勝者がすべて獲得する。敗者はゼロ」と明記された同意書だった。猪木の報酬はアリの600万ドル(約18億円)に対し、わずか200万ドル(約6億円)だった。調印式はNET(現テレビ朝日)で生中継されていた。猪木はそれも計算ずみだった。「ギプス」に激高していたアリは引くに引けず、サインした。

 猪木「オレは台本通りが嫌いだ。アドリブでいく方がハプニングがあって面白いし、自分も楽しめるしね。驚かせることがイベントには必要なんだ」。

 このパフォーマンスには後日談がある。調印式を終えた夜、30人を超えるアリの取り巻きたちが、交渉役で新日本の取締役だった新間寿氏のホテルの部屋へ押し入ってきた。アリのプロモーターのボブ・アラム氏が「今日の同意書のサインはなしだ。破棄しなければ試合をキャンセルする」と迫った。机の上に2丁のピストルが置かれた。脅迫だった。新間氏は猪木に連絡した上で、同意書を無効にした。しかし、アリ陣営の脅しはまだ続いた。1人が言った。「もし猪木が試合のルールを守らず、アリを負傷させたら、必ず猪木と新間に対して何倍ものお返しをする。我々には世界中どこでもお返しをする力がある」。

 猪木の本気パフォーマンスは、鼻歌気分で来日したアリ陣営を動揺させた。「猪木はリングの上でも何をしてくるか分からない」という恐怖感を植え付けた。アリを本気にさせた。その意味で世紀のパフォーマンスは大成功だった。【田口潤】



▼プロレスの証言者 アントニオ猪木(10)
<第1章〜アリと異種格闘技戦10〜>
http://www.nikkansports.com/battle/p-bt-tp0-20060901-83743.html

表情が恐怖の色に染まった

 アリの顔が引きつった。4回だった。寝たままの体勢から、猪木のムチのようなローキックが、アリの左足を何度も直撃した。コーナーに追い詰められた世界ヘビー級王者は、ロープにつかまり、体を浮かせて、足をばたつかせた。表情が恐怖の色に染まった。

 リングサイドで実況した舟橋慶一氏(元テレビ朝日アナウンサー)は、今でもはっきりと覚えていた。「1、2回のアリはとてもリラックスしていた。なめていたんでしょう。それが4回あたりから、表情がはっきりと変わった」。

 猪木「アリの目の色が変わってきた。足も赤く腫れてきた。キックに苦しんでいるのが分かった」。

 76年6月26日、東京・日本武道館は1万4000人の大観衆で埋まった。前年3月の挑戦表明から1年3カ月。猪木はついにアリと同じリングに立った。黒のショートタイツとシューズ。アリは白のトランクスとシューズ。猪木は1回のゴングと同時に、スライディングキックを仕掛けた。その後も徹底してキックでアリの左足を狙い続けた。

 5回、初めて試合が動いた。開始53秒、猪木のスライディングキックが、アリの左ひざの裏側にさく裂した。アリはひざから崩れてダウンした。勢いに乗った猪木は6回、ゴングと同時のスライディングキックで再びアリをふらつかせる。7回にもスライディングキックで、2度目のダウンを奪う。試合は猪木に傾きはじめた。

 猪木「オレは5回で絶対勝てると思っていた。上に乗ってボコンと一発入れれば、実際勝っていたかもしれない。でもルールさえ覚えていない」。

 アリは心のどこかで、猪木を甘く見ていた。だから極東のプロレスラーの鋭いキックに明らかに戸惑っていた。しかし、60年ローマ五輪で金メダルを獲得、プロ転向後は無敗で世界ヘビー級王座を獲得した男は、やはりただ者ではなかった。腫れ上がった左足のダメージを面に見せず、自慢の華麗なフットワークで猪木の周りを回り続けた。時折強烈な右ストレートを放ち、猪木の追撃を許さなかった。

 猪木「動物の感性。オレもすごいが、相手もそれ以上の動物の感性を持っていた。お互いに予想外で出す手がなくなった」。

 リングの上を張り詰めた緊迫感が包む。時間だけが過ぎていった。【田口潤】

[2006年9月1日9時34分 紙面から]



▼プロレスの証言者 アントニオ猪木(11)
<第1章〜アリと異種格闘技戦11〜>
http://www.nikkansports.com/battle/p-bt-tp0-20060902-84169.html

不利なルールに縛られた中で

 後半に突入しても試合は動かなかった。あおむけになったアントニオ猪木は決して立とうとはしない。アリも「来い」とは叫ぶが、自分からは仕掛けない。「立って戦えよ」。いら立った観衆から次々とヤジが飛んだ。リングの外からはこう着状態に見えた。しかし、リングの上は、息詰まる駆け引きが展開されていた。

 8回開始前、アリ陣営が「トー(つま先)キックは反則だ」と猛抗議。猪木陣営は「足の甲で蹴っている」と主張したが、レフェリーは猪木のシューズの先端にテープを巻き付けた。さして効果があるとは思えないが、それほど猪木のキックはアリの左足にダメージを与えていた。さらに同回中盤にはアリのセコンドが反則を訴えて乱入。猪木は6回に続いて不条理な減点まで取られた。

 猪木「なぜかと思うほど、彼らは神経質になっていた。抗議に次ぐ抗議だったからね」

 低い位置からビシッ、ビシッと放たれる猪木のキックは、見た目の派手さはない。一発で相手を倒すような大きな効果もない。しかし、1カ所を執ように狙って蹴り続けることで、アリの左足は確実にダメージを拡大していった。「立て」。展開を変えたいアリは何度も挑発した。しかし、猪木は決して応じなかった。この展開が続けば左足は15回もたないかもしれない。その危機感がアリ陣営を意味不明な抗議へと駆り立てた。

 猪木「今の選手はちょっと他競技を覚えると、自分の出身競技をおろそかにする。例えばレスラーが打撃を習うと、構えまでボクサーになってしまう。だから相手のペースにはまる。オレは絶対に相手の土俵では戦わない。アリ戦はルールに縛られたこともあったが、パンチが当たったら終わり。自分のスタイルは崩すつもりはなかった」

 13回にもロープブレークをめぐり、アリ陣営がリングに乱入した。猪木はレフェリーの「ブレーク」の指示を無視したとして、3度目の減点を命じられた。その後、試合は大きな変化もなく最終15回が終了した。判定はレフェリーが71対71、ジャッジを務めた元日本プロレスの遠藤幸吉氏が72対74でアリ、日本ボクシング協会公認レフェリーの遠山甲氏が72対68で猪木。三者三様の引き分けだった。

 試合後、アリは「オレは立っていた。猪木は寝ていた。引き分けはおかしい。延長だ」とわめいた。一方で減点がなければ猪木の判定勝ちだったという見方もあった。寝たままの猪木と、立ちつくすアリの試合は最後までかみ合わなかった。期待が大きかっただけに、会場は失望感に包まれた。しかし、試合を終えた主役の実感はまるで違っていた。

 猪木「はっと気付いたら15回終わっていた。絶対勝つと思っていたから悔しかった。でもその半面、すべてを出し切ったという充実感があった」

 不利なルールに縛られた中で、ボクシングの世界ヘビー級王者を極限まで追い込んだという手応えがあった。プロレスラーを貫いて世界のアリを相手に互角以上に戦ったという自負があった。【田口潤】



▼プロレスの証言者 アントニオ猪木(12)
<第1章〜アリと異種格闘技戦12〜>
http://www.nikkansports.com/battle/p-bt-tp0-20060903-84715.html

額に拳大のこぶができていた

 決戦翌日。アントニオ猪木の肉体に異変が起きていた。朝目覚めると、額に拳大のこぶができていた。寝て戦った猪木にアリのパンチは届かなかった。わずかにかすった程度で、クリーンヒットは1発もなかった。いくらボクシング世界ヘビー級王者のパンチでも当たっていないのにはれるはずはない。不思議で仕方なかった。

 その意外な真相は、数年後に判明した。当時、新日本プロレスの取締役だった新間寿氏が、米国でアリの関係者と再会した。そこで、アリが試合前に注射でグローブに石こうを流し込み、ガチガチに固めていたことを聞かされた。

 猪木「パンチを食った覚えはなかった。でもかすったパンチが確かに硬かった記憶があった。プロレスで頭突きを食ってもはれたことはなかったから」。

 もしそんなパンチが顔面を直撃していたら…。想像しただけでもゾッとする。しかし、真相を聞いた猪木に驚きはなかった。実は猪木陣営も決戦前に同じような作戦を考えていた。試合2日前、あまりに理不尽なルールに新間氏が、若手レスラーに猪木のシューズの底に鉄板を入れることを命じた。猪木は練習で実際に履いてキックを試した。一撃必殺の効果があった。だが、土壇場で鉄板シューズの使用を取りやめた。

 猪木「プライドだろうな。そんなことしなくても勝てると…。まあ試合前からいろんな情報が飛び交って、向こうが刀なら弓矢、弓矢なら鉄砲って、そんな感じだったからね」。

 リングサイドも一触即発の緊張状態だった。アリ陣営には複数の屈強なボディーガードがいた。何かあればリングに飛び込む用意ができていた。中にピストルを所持した人間が控えていたともいわれた。一方、猪木のセコンドについて坂口征二、山本小鉄、藤原喜明も、命を懸けて戦う決意だった。

 結果的にリングの上では何も起きなかった。盛り上がりのない試合だった。しかし、ボクシングとプロレスのプライドを背負った当事者たちは、いつ暴発してもおかしくない極限状態の中で戦っていた。舞台裏は世間から批判された「茶番劇」などでは決してなかった。今だからこそ語ることができる真実だった。

 猪木−アリ戦を中継したNET(現テレビ朝日)の平均視聴率は46%。瞬間最高は55・8%をマークした。その数字は8月2日に行われた亀田の世界戦を大きく上回っている。【田口潤】



▼プロレスの証言者 アントニオ猪木(13)
<第1章〜アリと異種格闘技戦13〜>
http://www.nikkansports.com/battle/p-bt-tp0-20060904-85201.html

世紀の凡戦

 猪木−アリ戦の翌日、当時の猪木夫人で女優の倍賞美津子が、自宅近くのJR恵比寿駅で新聞を購入した。そこに「世紀の凡戦」の見出しが躍っていた。スポーツ紙から、ふだんプロレスを報じない一般紙まですべてが試合を酷評していた。新聞を広げた猪木は全身の力が抜けるほど、落ち込んだという。

 猪木「死力を尽くして戦ったのに…。見ている人には分からないんだなと。本当に不本意でしたよ。何も残らないのかって。心に空洞ができた」

 実は試合翌日は、新日本の若手たちと、富士山に登る予定だった。アリに勝って、頂上に立つ。天下取りを高らかにアピールするつもりだった。だが、その計画は当日になって中止した。勝てなかった上に、キックし続けた右足ははく離骨折していた。そして何より世間の酷評に、動く気力を失った。「みんながオレを笑いものにしている」。そう思ったら、家を出る勇気もなくなった。

 さらにショッキングな出来事が起きた。試合翌日、ソウルに立ち寄ったアリが「あの試合はお遊びだったんだよ」とコメントした。試合を酷評したメディアが、この発言に飛びついた。死力を尽くし「分かり合えた」と思っていただけに、裏切られたような気分になった。「お遊び発言」は猪木のキックで左足に重傷を負った世界王者の強がりにすぎなかったが、世界のアリの発言は、そのまま試合の評価につながる。アリを恨んだ。

 しかし、世間のすべてが敵だったわけではなかった。代官山の自宅を出て、南青山の新日本事務所に向かうため、タクシーに乗った。運転手に「昨日はご苦労さまでした」と言葉をかけられた。

 猪木「その一言がうれしくてね。落ち込んだ気持ちがスーと晴れた。別に全員が敵ではないんだと」

 1カ月後、うれしい出来事があった。米国の有力紙ニューヨーク・タイムズが猪木のもとに取材に訪れ、1ページを割いて猪木の言い分を報じた。猪木戦後、アリは左足の血栓症で1カ月も入院した。その事実をマスコミがかぎ付けた。「余興」と見られていた猪木−アリ戦を、米国内で再評価する者が出てきた。

 猪木「ちゃんと見てくれる人がいたと救われた気分になった。当時の日本の新聞に比べて米国人は公平だと思ったね」

 しかし、やはり現実は厳しいものだった。アリ戦の借金が9億円も残った。当初はチケット収入、放送料などで収益を出す予定だったが、クローズドサーキットの不振が響いた。猪木は新日本プロレスの社長から、会長に事実上棚上げされた。参謀だった取締役の新間氏も平社員に降格された。アリ戦の実現は正しかったのか、しばらく自問自答する日々が続いた。【田口潤】


▼プロレスの証言者 アントニオ猪木(14)
<第1章〜アリと異種格闘技戦14〜>
http://www.nikkansports.com/battle/p-bt-tp0-20060905-85607.html

アリと戦った男

 猪木−アリ戦の後遺症が、新日本プロレスを直撃した。上昇カーブを描いていた観客動員が落ち込んだ。世間の批判は沈静化したが、9億円の借金と合わせて会社は経営危機に見舞われた。放送権を持つNET(テレビ朝日)から3人の役員が派遣され、再建策が検討された。そこで導かれた結論は意外にも「異種格闘技戦の継続」だった。

 アリ戦は興行的には失敗だったが、50%を超える瞬間最高視聴率を記録した。世間の注目度は想像をはるかに超えていた。リスクはあるが、もう1度チャレンジする価値があると判断した。何よりも猪木本人がそれを強く望んだという。

 猪木「アリ戦は自分で背負った夢だった。事業家ならば株とか投資とかで借金を返済する方法もあるが、オレはリングの上で金を稼いで返すしかないと思っていた」。

 意外なところから朗報が届いた。パキスタン政府から「アリと戦った猪木をぜひ呼びたい」と試合オファーがきた。アリ戦は日本国内だけではなく、米国、アジア、さらに中東のイスラム圏でもテレビ中継されていた。国内では試合内容を酷評されたが、「アリと戦った男」の知名度は本人の想像以上に世界各地に広がっていた。

 76年12月12日、猪木は敵地でパキスタンの有名格闘家ペールワンの挑戦を受けた。会場は5万人を超える大観衆で埋まった。20年間無敗を誇る地元の英雄との一戦は、プロレスではなく格闘家の誇りをかけた決闘になった。猪木は羽根折り腕固めで仕留め、最後はペールワンの腕を折ってしまった。「猪木強し」。世界の評価はさらに高まった。

 猪木「あの試合は相手の目を突いたからね。今でもオレの腕にはペールワンの歯形が残っている」。

 国内でも好転の兆しが見え始めた。NETが新日本プロレス中継とは別に「水曜スペシャル」の特別枠を設けて、異種格闘技戦の中継を開始。「アリと戦った男」に世界中から有名格闘家が名乗りを上げた。全米プロ空手ヘビー級王者モンスターマン、アリに挑戦した経験を持つウェップナー、極真空手のウィリアムス…。猪木は相手を選ばずリングに立ち続け、1試合6000万円の報酬をすべて借金の返済へ充てた。

 猪木「死に物狂いで戦って借金を返した。会社も守らなければいけなかったから、その必死さが伝わったのかな。ファンの期待感がどんどん高まって勢いに乗った」。

 プロレスとは一線を画す、独特な緊迫感に満ちた戦いに視聴率は急上昇。異種格闘技戦は一大ブームとなり、76年から80年まで、第1弾シリーズは14試合も続いた。結果的に「膨大な借金」という逆境が、猪木を過酷な戦いに駆り立て、それが新たな伝説を生んだ。

 猪木「自分は数々のスキャンダルを結果として利用できた。そのときは必死だった。余裕もなかった。でも、己に打ち勝ち、1歩踏み出す勇気があった。それが闘魂。猪木イズム」。

 世界的な格闘家を相手に猪木は勝ち続けた。いつしか「INOKI」の名前はプロレスの枠を飛び越えて、格闘技界最大の人気ブランドになった。その威光は「現代のカリスマ格闘家」といわれるグレイシー柔術のヒクソン・グレイシーをはるかにしのいでいた。【田口潤】

[2006年9月5日8時32分 紙面から]



▼プロレスの証言者 アントニオ猪木(15)
<第1章〜アリと異種格闘技戦15〜>
http://www.nikkansports.com/battle/p-bt-tp0-20060906-86065.html

入場曲「炎のファイター」誕生

 ムハマド・アリ戦の1年後、失意のアントニオ猪木に転機が訪れた。ロサンゼルスのビバリーヒルズで行われたアリとベロニカ前夫人の結婚式に招待されたのだ。アリは式場で猪木の姿を見つけると駆け寄って、抱き付いてきた。そして、耳元でこう言った。

 アリ「試合の時はオレもプレッシャーで死にそうだった。あんなに怖い試合はなかったけれど、人生最高の試合だったよ」

 1年ぶりの再会で、アリは猪木の強さを素直に認め、戦友として敬意を表した。試合後は「お遊びだった」と発言したが、それは本心ではなかった。リングの中で猪木の殺気におびえながらも、死力を尽くして戦っていた。猪木は「お遊び発言」に深く傷つき、恨んでもいた。だが、この日のアリの一言でわだかまりが一気に解けた。「アリも自分と同じ気持ちで戦っていたんだ…」。以来、世界をまたにかけた30年に及ぶ友情がスタートした。

 帰国後、アリからある曲を贈られた。伝記映画「アリ・ザ・グレーテスト」の主題歌だった。アフリカで戦ったアリを「アリ ボンバイエ(やっちまえ)」と応援する現地人の声援が入っていた。猪木はこの声援を「イノキ ボンバイエ」とアレンジ。有名な猪木の入場曲「炎のファイター」が誕生した。

 猪木「今ではみんなオレの曲と思っているだろうけど、もともとアリに友情の証しとして、もらったものなんだ」

 後年になっても、アリの深い友情を実感させられた出来事があった。90年12月、政治家になった猪木は湾岸戦争の最中のイラクに乗り込み、日本人の人質解放に成功した。当時、日本でも高く評価された快挙の裏には、アリの存在があった。実は猪木が到着する直前までアリがイラクに滞在していた。そして猪木のイラク入りを伝え聞いたアリは、当時のフセイン大統領に「猪木はベストフレンドだ」と助言していたという。

 猪木「いまだに世界のどこに行ってもアリ戦の話題が出る。『世界の猪木』といわれるのは、アリのおかげだよ」

 95年4月、猪木は北朝鮮で開催した平和イベントにアリを招待した。そして、98年4月4日に東京ドームで行われた猪木の引退式に、アリは重いパーキンソン病を押して来日。かつてのライバルに花束を手渡した。たった1度の戦いで生まれた2人のきずなは、時がたつにつれて強くなった。

 猪木「今はもう会った時に言葉はいらない。通じ合うものがあるんだ」

 凡戦、酷評、借金…。負の財産だったアリ戦は30年の時を経て、猪木にとって、そして日本の格闘技界にとって、掛け替えのない財産になっている。【田口潤】(第1章おわり)

 ※第2章「宿命のライバル馬場」は13日からスタートします。

[2006年9月6日8時36分 紙面から]


▼第2章に進む▼
プロレスの証言者 アントニオ猪木: 第2章〜宿命のライバル馬場〜
posted by プロレスの証言者 アントニオ猪木 at 02:06| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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