2006年11月04日

最終章〜新日本と名勝負〜

(1)〜(15)※完結しました

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アントニオ猪木(63)が日本のプロレスを変えた。72年(昭和47年)1月の新日本プロレス旗揚げ後、それまでタブー視されていた日本人対決や異種格闘技戦に挑戦。一方で過激な因縁抗争を前面に打ち出すとともに、タイガーマスクという劇画のヒーローも誕生させた。常識を超えた発想は常にファンを驚かせ、感動させた。第3章は、猪木の新日本を名勝負とともに振り返る。
▼プロレスの証言者 アントニオ猪木(1)
<最終章〜新日本と名勝負(1)〜>
http://www.nikkansports.com/battle/f-bt-tp0-20061026-108651.html

ストロング小林との世紀の対決

 アントニオ猪木には「昭和の巌流島の決闘」と例えられた一戦がある。国際プロレスのエース、ストロング小林との一騎打ちである。当時のプロレス界で「日本人対決」はタブー視されていただけに、2人のエース対決は世間を驚かせた。74年(昭和49年)3月19日、試合会場の東京・蔵前国技館は1万6500人の大観衆で埋まった。チケットのないファン約3000人が会場周辺を取り囲んだ。

 猪木「馬場さんとの対戦がなかなか実現しなかったからね。小林は次の大物だった。いい試合をして、プロレスに新たな時代をつくるつもりだった」。

 ファンの興味は試合の結果に注がれた。しかし、猪木本人の興味は小林戦のはるか先にあった。プロレス界では力道山時代から対戦カードは「善玉日本人対悪玉外国人」という暗黙のルールがあった。猪木はこのマンネリズムを打破したかった。「日本人エース対決」を新時代への突破口にするつもりだった。

 猪木「日本プロレスにオレと馬場さんを戦わせる度量があったら人気はもっと広がったはずだった。(日本人対外国人という図式ではなくて)感情がぶつかり合うケンカこそファンが見たい試合だったんだ」。

 実はプロレス界で日本人対決がタブー視されてきた原因があった。54年(昭和29年)12月22日、東京・蔵前国技館で、力道山と元柔道家の木村政彦が、日本ヘビー級王座を懸けて雌雄を決した。日本を代表する2大格闘家の対決は、社会的にも注目された。しかし、試合は突然激高した力道山が木村にチョップを乱打してレフェリーストップ勝ち。ケンカのような殺伐とした後味の悪い結果に、プロレス人気は暴落した。以来20年間にわたり、日本人トップ対決は封印されてきた。

 74年2月に小林はフリー宣言した上で、馬場と猪木に内容証明付の挑戦状を送った。馬場は無視した。しかし、猪木はすぐに会見を開いて受諾した。小林と誰もが認める最高の試合をすることで、日本プロレス界を力道山−木村戦の20年に及ぶ呪縛(じゅばく)から解き放つつもりだった。

 74年3月1日、都内のホテルで行われた調印式で、猪木は先制攻撃を仕掛けた。激しい舌戦となった会見終了後、2人並んでの写真撮影で、小林の顔面を右拳で殴りつけた。激高して襲い掛かろうとする相手に笑いながら「試合ではその気でかかってこいよ」。前景気は最高に盛り上がった。

 試合はファンの予想をはるかに超える名勝負になった。投げ技、パンチの応酬で、一進一退の攻防が続いた。会場もファン同士が殴り合うほど異様な盛り上がりを見せた。20分すぎの場外乱闘で、猪木は額を割った。顔面が血だらけになった。しかし、最後は岩石落としからの原爆固めで小林からフォールを奪った。29分30秒の激闘が終わった。

 テレビ視聴率は20%を超え、翌日のスポーツ紙もほぼ全紙が1面で報じた。それにしても、感情とプライドが先走りして、かみ合いにくいといわれた日本人対決で、なぜ2人はプロレス史に残る名勝負を演じることができたのか。その秘密を今、猪木が明かす。

 猪木「2人が互角ではなく、どちらかの実力がずばぬけていれば、最高のパフォーマンスができる。技をすべて受けて、相手の力を引き出すことができる。オレは小林のすべてが見えていた。見下ろして戦うことができた」。

 30分近い死闘は、実はすべて猪木の支配下にあった。だからこそお互いが力を出し尽くした名勝負になったという。猪木−小林戦で、プロレス界の日本人対決への意識は180度変わった。【田口潤】

[2006年10月26日9時26分]

▼プロレスの証言者 アントニオ猪木(2)
<最終章〜新日本と名勝負(2)〜>
http://www.nikkansports.com/battle/f-bt-tp0-20061027-109041.html

宿敵タイガー・ジェット・シン

 新日本時代のアントニオ猪木の宿敵は誰か? 真っ先に名前が挙がるのが「インドの狂虎」と呼ばれたタイガー・ジェット・シンである。73年(昭和48年)の初来日以来、サーベルを振り回して襲い掛かる凶暴なファイトで、猪木と数々の流血戦を演じた。リングの上に「遺恨」を持ち込んだ2人の抗争はドル箱カードになった。仕掛け人は猪木本人だった。

 猪木「選手を発掘しないといけない時代だった。シンは新日本の隆盛につながる選手だった。最初は小さなナイフをくわえていたから『つまらねえ』と言ってサーベルを持たせてね。これは感性。ふと思いついたんだ」。

 2人の試合は従来のプロレスの常識を覆す過激なものだった。74年6月に蔵前国技館で行われたNWF世界ヘビー級選手権では、挑戦者のシンが火炎攻撃で猪木の目を負傷させた。6日後の大阪大会の再戦では、猪木が全体重を乗せたアームブリーカーで、シンの右腕を骨折させた。リングの上で肉体の限界までお互いを追い込んだ。

 猪木「相手の力を引き出すこともプロレスラーの重要な役目。オレはシンが持っていた独特の狂気、凶暴さを引き出すことに成功した。そのために極限の戦いが続いたけど、ファンは盛り上がったね」。

 2人の抗争は新日本の人気を急カーブで上昇させた。テレビ放送は金曜日の午後8時からのゴールデンタイムに進出。視聴率も20%を超えた。

 実は2人の抗争の発端はリングの外だった。73年11月5日、新宿の伊勢丹前の路上で、猪木はシンを含む数人の外国人に襲われた。当時の夫人、女優の倍賞美津子とともに買い物をしていた猪木は不意を突かれて流血。警察まで出動した襲撃事件は、新聞やテレビのニュースでも報じられた。衝撃度は十分で、「やらせ」論議を含めて、2人の因縁はプロレスファンだけでなく、広く世間の関心を呼んだ。

 猪木「プロレスはなんでもあっていい。非日常がプロレス。大衆をテレビに引きつけるためにはアテンションが絶対に必要なんだ」。

 リングに「遺恨と抗争」を持ち込んだ猪木の興行戦略は大成功した。それにしても1歩間違えば選手生命にかかわる大けがを負いかねない極限の戦いを、2人はなぜ5年以上の長期間も続けることができたのか。その秘密を猪木が明かす。

 猪木「リングの上ではシンとは敵対し、憎しみ合った。やつの投げたいすが首に刺さったこともある。凶器のナイフで刺されたこともある。でも、根底には強い信頼関係があった。シンは攻撃、受け身、怒りを戦いの中で表現できた。オレの求めるプロレスができたんだ」。

 シンこそが猪木の目指す過激なプロレスの完ぺきなる体現者だった。【田口潤】

[2006年10月27日8時38分]

▼プロレスの証言者 アントニオ猪木(3)
<最終章〜新日本と名勝負(3)〜>
http://www.nikkansports.com/battle/f-bt-tp0-20061028-109643.html

異種格闘技戦

 アントニオ猪木は自ら創設した新日本のリングで、次々と「プロレス」の概念をたたき壊した。その象徴が異種格闘技戦だった。柔道五輪金メダリストのルスカ、プロボクシング世界ヘビー級王者のアリ…。プロレスに安住せず、格闘技の境界線を超えて戦い続けた。そこが他のプロレスラーと、猪木の決定的な違いである。なぜ彼は格闘技にこだわったのか。

 猪木「オレはプロレスをしたくてプロレスラーになったわけじゃない。人気者になりたかったわけでもない。子供のころから一番大きくて強かった。だから世界で自分が一番強いことを証明したかった。曽祖父も怪力自慢でね。曽祖母の入った風呂おけをそのまま持ち上げて移動させたという。暴れ馬をねじ伏せようとして、馬に蹴られて死んだらしい。今思うとその遺伝子が大きいのかもな」。

 ルスカを2度までもリングに沈め、世界最強といわれたアリとも引き分けた。パキスタンで不敗の格闘家ペールワンの腕をへし折り、全米プロ空手の王者モンスターマンも失神させた。多大なリスクを背負いながら、猪木は「世界一」を求めて戦い続けた。そして、最後にたどり着いたのが「史上最強」といわれた極真空手だった。

 80年(昭和55年)2月27日、日本武道館で極真空手のウィリー・ウィリアムスとの一騎打ちが決定した。極真空手は梶原一騎原作の劇画「空手バカ一代」、映画「地上最強のカラテ」で、格闘技ファンの圧倒的な支持を受けていた。その映画の中でウィリアムスは245センチ、300キロの熊と戦い勝利を収めていた。プロレス界に「猪木危うし」の声が広がった。

 猪木−ウィリアムス戦は、単なる試合ではなかった。ともに「世界最強」を自負する団体の名誉をかけた戦争になった。極真サイドは「ウィリアムスのパンチ1発で猪木は死ぬ」「猪木のアリキックは子供だまし」と挑発を重ねた。これに対して新日本サイドが謝罪を要求するなど、遺恨を残したまま決戦を迎えた。

 猪木「アリ戦以上に両陣営に不穏な空気が漂っていてね。試合前には誰かがオレを狙っているなんてうわさもあった」。

 リングの周囲を新日本と極真空手の関係者が取り囲む異様な雰囲気の中でゴングが鳴った。1回、ウィリアムスのショートパンチが猪木の頭部を襲った。猪木はアリキックで応戦した。2回に2人は折り重なって場外に転落。いったんは両者リングアウトで決着しかけたが、立会人の梶原一騎氏とレフェリーの協議の結果、試合続行が決まった。

 4回、猪木はウィリアムスに腕ひしぎ逆十字固めを掛けたまま再びリング下に転落した。ここで両陣営のセコンドが乱入。大混乱のまま、4回4分24秒、両者リングアウトの引き分け裁定が下った。猪木はあばら骨にひびが入り、ウィリアムスは左腕じん帯損傷のけがを負った。何とも後味の悪い痛み分けに終わった。

 当時、猪木の影響力は本人が考えていた以上に大きかった。テレビ視聴率は20%を超え、世間の注目度はプロ野球に肩を並べていた。勝敗がそのまま団体の盛衰に直結するような状況だった。もはや猪木が1人の格闘家として純粋に「世界一」を争うことは不可能だった。ウィリアムス戦でそれが浮き彫りになった。この一戦を最後に猪木は異種格闘技戦を封印した。その後、プロレスと格闘技は別々の道を歩む。

 猪木「オレの次の時代の連中がプロレスと格闘技を分けてしまった。勝手に差別化して苦しんでいる。オレはプロレスも格闘技も一緒だと言っていたのに…」。【田口潤】

[2006年10月28日13時35分]

▼プロレスの証言者 アントニオ猪木(4)
<最終章〜新日本と名勝負(4)〜>
http://www.nikkansports.com/battle/f-bt-tp0-20061029-110007.html

偉大なるプロデューサー

 アントニオ猪木は偉大なるプロデューサーでもあった。アンドレ、ホーガン、ハンセン、ベイダー…。新日本のリングから次々と世界を代表するトップレスラーを送り出した。駆け出しの怪物レスラーたちのキャラクターを見極め、際立たせ、眠っていた才能をリングで引き出した。その手腕は本場米国マットでも高く評価された。

 猪木「スターをつくる素質がオレにはあった。プロレスラーとプロデューサーの2人の猪木がいた。リングの上でも相手の力を引っ張り出すことができた。自分に自信があったからね」。

 象徴的な存在が、身長223センチの大巨人のアンドレ・ザ・ジャイアントだった。70年(昭和45年)1月にモンスター・ロシモフのリングネームで国際プロレスに初来日。73年にWWWF(WWEの前身)と契約した。しかし、米国では「見せ物」として扱われていた。トップ選手とマッチメークされず、善玉の大男という設定で、1対2や1対3のハンディキャップマッチでお茶を濁していた。

 その埋もれた大男を猪木が「世界最強の大巨人」に変身させた。74年2月、新日本マットに初登場させると、悪役怪物レスラーとして売り出した。親日家のアンドレに徹底した「日本人嫌い」を演じさせた。「人間山脈」のニックネームも怪物イメージを際立たせた。アフロヘアを振り乱し、花束嬢にまで襲い掛かる。リングの上では、猪木が迫力満点の怪物技をいかんなく引き出した。

 猪木「素材にこしょうを利かせて、うまく料理する。イベント屋は観客をびっくりさせて、面白がらせることが大事。遊び心、子供心がないとだめなんだ」。

 新日本で自分のキャラクターを確立したアンドレは、米国に戻ると一気にスターダムにのし上がった。WWWFから移行したWWEのトップレスラーとして80年代に絶大な人気を誇った。88年2月にはWWF世界ヘビー級王座も奪取。世界の頂点を極めた。

 猪木はプロデュースのイロハを亡き師匠から学んだ。力道山は米国から殺人狂コワルスキー、鉄人ルー・テーズ、銀髪鬼ブラッシー、白覆面の魔王ザ・デストロイヤーらを呼び寄せた。ライバルとして戦う一方で、うまく相手の個性を引き出す。直接、教えられたことはないが、付け人時代、四六時中そばにいたことで、自然と頭に入っていた。

 猪木「力道山がキャラクターづくりの天才でね。強い選手だけでは興行にならない。善玉に悪玉、化け物…。いろいろなタイプがいるからこそ、強い選手が引き立つ。当時は意識していなかったけど、身をもって覚えていたんだな」。

 レスラーに限らず興行面でもプロデューサーとして手腕を発揮した。78年2月、悪役レスラーの上田馬之助との「釘板デスマッチ」は世間を驚かせた。五寸釘が無数に打ち付けられた板を、リングの下に敷き詰めて試合を敢行した。日本武道館は超満員の観客で埋まった。

 力道山から受け継いだ興行のノウハウと、人並み外れた好奇心が、猪木をプロデューサーとして成功させた。一方で新日本時代の猪木の奇抜な発想は、前夫人の女優倍賞美津子からも影響を受けたという。

 猪木「倍賞と結婚して勉強になった。多くの映画、テレビ関係者と知り合った。自然とイベントの話題になる。そこから、リングでまじめに戦うだけではなく、大衆を引きつける方法を学んだんだ」。【田口潤】

[2006年10月29日9時14分]


▼プロレスの証言者 アントニオ猪木(5)
<最終章〜新日本と名勝負(5)〜>
http://www.nikkansports.com/battle/f-bt-tp0-20061030-110529.html

タイガーマスク、デビュー

 アントニオ猪木の独特の感性が、空前の大ブームに火を付けた。81年4月23日、東京・蔵前国技館でタイガーマスクがデビューした。軽業師のような空中殺法と、華やかで多彩な必殺技でファンに衝撃を与えた。劇画の中からそのまま現実の世界に飛び出してきたようなヒーローは、一夜にして時代の寵児(ちょうじ)になった。当時秘密にされていたタイガーマスクの正体は佐山聡。周囲の反対を押し切って、猪木が強引に指名した男だった。

 タイガーマスクのアイデアは、原作者の梶原一騎氏と、新日本の営業本部長だった新間寿氏が考えた。プランを聞いた猪木も「面白い。いこう」とゴーサインを出したという。人選の段階で、大部分の幹部が若手で最も人気のあったジョージ高野を推薦した。米国人の父親を持ち、ハンサムで、身長185センチと体も大きかった。しかし、猪木は首を縦に振らなかった。日本ではまだ知名度の低かった173センチの佐山を、独断で推した。

 猪木 佐山は英国でサミー・リーとして人気があってね。身体能力が高くて、感性も良かった。確かに高野を推す声が多かった。かっこよさなら高野かもしれない。でもオレはそこじゃないと…。理屈じゃなくて、佐山が一番だと直感した。迷いもなかった。

 佐山には若手の中でも突出した格闘技センスがあった。77年11月にはマーシャルアーツのミドル級1位マーク・コステロと異種格闘技戦を行った。新日本の格闘技部門の第1号選手になるプランもあったほどだ。英国では「ブルース・リーの弟子」という設定で活躍した。気も強かった。異種格闘技路線を歩んできた猪木にとって、特別な存在だったのだろう。

 猪木の直感は見事に的中した。デビュー戦のダイナマイト・キッド戦で、タイガーマスクは従来のプロレスの常識を覆す、異次元ファイトを披露した。高速回転の後ろ回し蹴りを連発。コーナーにくぎ付けにしたキッドの胸板を蹴って、空中に舞い上がり後方に1回転して着地した。サマーソルトキックだった。見たこともない劇画のような動きに、会場は揺れ続けた。最後は原爆固めで仕留めた。伝説の始まりだった。

 猪木 いきなり最高の試合をしたんだよ。観客はもちろんだけど、選手全員が廊下に出て試合を見ていた。高いレベルのライバルがいたのもよかった。このデビュー戦がすべてだった。あれがこけていたら、ブームはなかったと思う。

 会場には少年ファンが殺到した。金曜夜8時の新日本のテレビ中継「ワールドプロレスリング」(テレビ朝日)の視聴率は30%を超えた。ちょうど前年に猪木の異種格闘技戦シリーズが終わっていた。新しい起爆剤が求められるなか、最高のタイミングでニューヒーローが誕生した。

 猪木 異種格闘技戦シリーズで借金を返すと、次はタイガーマスクが登場した。オレの中には、意表を突く部分がいつも基本にある。最初、佐山は反対してね。それが今ではそれで飯食ってる。笑っちゃうよ。オレの感性は人とは違うんだよ。【田口潤】

[2006年10月30日12時9分]

▼プロレスの証言者 アントニオ猪木(6)
<最終章〜新日本と名勝負(6)〜>
http://www.nikkansports.com/battle/f-bt-tp0-20061031-110819.html

IWGP構想

 1980年(昭和55年)12月、アントニオ猪木はインターナショナル・レスリング・グランプリ(IWGP)構想を提唱した。F1をモデルにしたという計画は壮大だった。日本で開幕戦を行い、韓国、中東、欧州、メキシコと回って、決勝は米ニューヨーク開催。各地域の王者を参加させて世界最強のレスラーを決める−。長年の夢の実現へプロモーター生命をかけた。

 現実離れした構想に、周囲は半信半疑だった。当時からプロレス界は米国が牛耳っていた。NWAが圧倒的な勢力を誇り、AWA、WWFが追随していた。インターナショナル、UNなど日本の主要タイトルもすべて米国で認定されたものだった。日本の団体は米国の大手団体と契約して、外国人レスラーを借りる立場。世界統一王座の実現など夢にすぎなかった。しかし、猪木だけは本気だった。

 猪木「当時、すでに世界中にチャンピオンベルトが乱立していた。だから、ただベルトをつくっても仕方がない。どの団体にも負けないようなプロレス界最強の権威あるベルトにしようと思った」。

 夢を実現させるため、猪木は大胆な行動に出た。最初に新日本の管理運営していたベルトをすべて消滅させた。81年4月、猪木はハンセンとのNWF王座決定戦に勝利すると、すぐに王座を返上した。さらに坂口征二のWWF北米ヘビー級王座、坂口、長州力組のNWA北米タッグ王座、タイガー・ジェット・シンのNWA北米ヘビー級王座、アジア・ヘビー級王座、シン、上田組のアジア・タッグ王座の合計6王座を返上させて、封印した。

 実はIWGP構想の裏には、ジャイアント馬場への強い対抗意識があった。当時「世界最強の証し」といわれていたNWA王座は、日本では馬場が独占していた。日本プロレス時代のNWA認定のインターナショナル、UNの両王座も全日本が引き継いでいた。猪木は異種格闘技戦などで世界最強を実証したが、権威あるベルトとは無縁だった。

 猪木「NWAから圧力があって、名前のある外国人レスラーが呼べなかった。『新日本のリングに上がったらブッキングしないよ』ってお達しを出してね。オレらは今の北朝鮮的立場、いつもアウトロー扱いだった」。

 苦い思い出がある。74年8月3日。米ラスベガスでNWA総会が開催された。猪木は中継局のNETテレビ(現テレビ朝日)の関係者とともに渡米した。しかし、現地では会場にも入れてもらえなかった。加盟の認可を訴えるつもりが、総会の出席すら許されなかった。翌75年に坂口征二と役員だった新間寿氏の加盟が認められたが「NWA世界王者は全日本プロレスの既得権として、新日本プロレスには出場させない」との条件がついた。IWGP構想は、そのころから胸に温めてきた。

 現実は厳しかった。NWAを含め海外の主要プロモーターの協力は簡単に得られなかった。世界各地を転戦するという当初の計画も頓挫した。だが、猪木は無理を承知で、強引に夢を実行に移した。反NWAだったWWF(現WWE)との関係強化が功を奏し、何とか強豪レスラーをそろえることができた。

 猪木「大きな夢を掲げれば、何かが動きだす。計算を先にしてはいけない。現状がこうだから、これしかできないではだめなんだ。オレはやることに一点集中、計算していなかった」。

 第1回のIWGPリーグ戦は、構想から2年半後の83年5月にようやく実現した。日本代表の猪木、キラー・カーン、ラッシャー木村、北米代表のアンドレ・ザ・ジャイアント、米国代表のハルク・ホーガンら計10選手が参加。欧州代表には英国で「クイックキック・リー」として活躍した前田明(現日明)が選ばれた。リーグ戦28連戦中26戦が超満員になった。【田口潤】

[2006年10月31日8時51分]

▼プロレスの証言者 アントニオ猪木(7)
<最終章〜新日本と名勝負(7)〜>
http://www.nikkansports.com/battle/f-bt-tp0-20061101-111276.html

ホーガン戦の敗北

 世界最強といわれたアントニオ猪木が失神した。舌を出して倒れたまま動かない。衝撃的なシーンはブラウン管を通じて全国に流れた。1983年(昭和58年)6月2日、東京・蔵前国技館で行われた第1回IWGP決勝リーグ戦の決勝戦。優勝を確実視されていた猪木は、ハルク・ホーガンの必殺技アックスボンバーを浴びて場外に転落。マットのないコンクリート部分に後頭部を強打した。屈辱の失神KO負け。この瞬間、築き上げてきた猪木の最強神話が崩壊した。

 猪木「自信はあった。でもアクシデントが起きた。あれから6カ月くらいは、話すと舌がもつれる状態が続いてね。言語障害のような状態で、しばらくはインタビューにもろくに答えられなかった」。

 ホーガン戦は特別な試合だった。2年半前に自ら提唱したIWGPの初代王者を決める一戦だった。一方で大ブームを起こしたタイガーマスクと、愛弟子の長州力の看板レスラー2人が相次いで退団を表明。この年の2月に40歳になっていた猪木は、団体の浮沈も背負っていた。全28戦という過酷なリーグ戦で肉体は限界に達していた。それでもリングの上で一切妥協しなかった。

 猪木「IWGP王座の価値を高めるためにも、極限の戦いをしようと決めていた。『すべて受けてやるから、目いいっぱいこい』とね。それがプロレス。ホーガンのアックスボンバーもすべて受け切って勝つつもりだった」。

 ゴングが鳴った。10歳以上若いホーガンには若さと勢いがあった。延髄斬りを外され、岩石落としを食らった。序盤から頭部に大きなダメージを負った。20分すぎ、猪木はロープ際でホーガンを強引に投げようとしてバランスを崩した。140キロの巨体と重なるように場外へ落下。その時、リング下のマットに頭部を打ち付けた。

 実はこの辺りからの記憶はほとんどないという。無意識のまま相手に背を向けて立ち上がったとき、アックスボンバーを後頭部にたたきつけられ、目の前の鉄柱に額から激突した。気力を振り絞り、やっとの思いでエプロンに上がった。その瞬間、再びホーガンのアックスボンバーを食らった。場外に吹っ飛ばされた猪木はうずくまったままピクリとも動かなくなった。そのまま救急車で都内の病院に直行した。検査の結果「一過性脳振とう」と診断された。

 激闘の代償は大きかった。体には後遺症が残った。IWGP初代王者の座も逃した。そして、何よりも屈辱的な結末により、最強神話に疑問符が打たれた。作戦ミスという声もあった。確かにキャリアを生かす老かいな戦いに徹すれば、ホーガンのパワーを空転させることもできたのだろう。しかし、猪木は当時の戦い方に後悔はないという。

 猪木「オレにはプロモーターと、選手という2面あった。リスクを背負わなければ試合はつまらない。オレは一切手加減しなかった。K−1でもPRIDEでも秀でる選手はリスクを背負った戦いをする。だから勝っても、負けても人気が出る。要は冒険できるかどうか。ホーガンもあの1発で世界に名前が広がった。それまではキン肉マンの物まねだったから。彼もオレに感謝してくれた」。

 ホーガン戦の敗北で猪木はすべてを失ったわけではない。ストロングスタイルを体現するような失神KO劇で、プロレスのすごみ、迫力をあらためて世間に伝え、IWGP王座の権威を高めることに成功した。【田口潤】

[2006年11月1日9時32分]

▼プロレスの証言者 アントニオ猪木(8)
<最終章〜新日本と名勝負(8)〜>
http://www.nikkansports.com/battle/f-bt-tp0-20061102-111716.html

離合集散の歴史

 アントニオ猪木が創設した新日本プロレスは、昨年末から激震が続いている。経営難によるリストラ策で、今年1月には大量11人の選手が退団した。6月には団体旗揚げから猪木を支えてきた藤波辰爾まで離脱した。その報告はすぐに猪木にも届いた。

 猪木「藤波が辞めることで、会社の連中は『スキャンダルが怖い』という。だからオレは言ったんだ。『ばか野郎。オレたちはスキャンダルで飯を食ってきたんじゃないか。好きにやらせてやれ』とね」。

 新日本の歴史は離合集散の歴史でもあった。タイガーマスク、前田日明、長州力…。人気絶頂のトップ選手たちが、次々と団体を去った。84年(昭和59年)には団体存続の危機にも見舞われた。同4月、当時の新間寿営業部長が中心となりユニバーサル・プロレス(後のUWF)を設立。前田、高田ら9選手が新日本を離脱して合流した。同9月には長州力が谷津ら5選手を引き連れて独立し、全日本マットに参戦。主力選手の約半数が抜けた。

 当時の大量離脱は猪木の事業に原因があるといわれた。83年から新日本の売り上げの大部分が、猪木のブラジルでの事業会社「アントン・ハイセル」の負債に流用されているとのうわさが広がった。選手たちは疑心暗鬼になった。同8月には不信感を持ったタイガーマスクが突然引退を表明。2週間後の緊急役員会で猪木は社長辞任に追い込まれた。それでも、猪木は決して選手を引き留めることはしなかったという。

 猪木「何回も造反劇があった。でも出る者は追わない。出ると決めた者はどうしようもないから。若い人は体制とかみ合わなくなる。おれ自身がそうだったから。オレは2度、日本プロレスを退団している。だからかみ合わなくなった人間を止めても仕方ないということはよく分かっていた」。

 一方で猪木には造反して団体を去った選手を、再び新日本のリングに上げる度量の広さもあった。UWF勢は離脱から2年後の86年1月に「外敵」として新日本に復帰した。87年4月にはジャパンプロレスを設立した長州力が、全日本から戻ってきた。団体崩壊の危機を招いた男たちを、何のわだかまりもなく受け入れた。そして残留本隊との「対抗戦」として新たな興行の目玉にした。選手の離合集散が、プロレス界に新鮮な活気を与えたことも事実だった。

 新日本になぜ選手の造反劇や離脱が頻発したのか。その根底には猪木独特のプロレス哲学がある。日本プロレス時代に「序列」に泣かされ、馬場への挑戦がかなわなかった。だから新日本では徹底した実力主義を貫いた。日本人同士の抗争や下克上をむしろ売りものにした。試合も自然と過激になった。その激しさゆえに人気を得たが、当事者同士の感情がもつれることも珍しくなかった。序列を壊さず、各自の役割をまっとうさせた馬場の全日本とは対照的だった。

 猪木「新日本創設者のオレが、退団とか離脱とか、そんなことにこだわらない。オレは止めもしないし、帰ってきたい者は帰ってこいよと。社長に反発して出ていった者が、また帰ってきて戦う。平社員が社長をぶん殴れるのがプロレス。普通の組織ではあり得ないことだけど、リングで感情をぶつけ合えばいいじゃないか。プロレスが面白くなれば、それでいいんだ」。【田口潤】

[2006年11月2日9時29分]

▼プロレスの証言者 アントニオ猪木(9)
<最終章〜新日本と名勝負(9)〜>
http://www.nikkansports.com/battle/f-bt-tp0-20061103-112186.html

離婚、巌流島の決闘

 アントニオ猪木は昭和の時代に「巌流島の決闘」をよみがえらせた。1987年(昭62)10月4日、関門海峡に浮かぶ巌流島(現船島)でのマサ斎藤戦である。観客のいない、無人島に設置されたリングで、2人は2時間5分14秒に及ぶ死闘を演じた。演出も、駆け引きもない、プロレスを超えた本物の決闘だった。なぜ興行にならない試合を強行したのか。猪木はこのリングを「死に場」にするつもりだったという。

 猪木 プロレス人気が下がってきた時期に、オレの離婚が重なってね。あの時は自殺を考えていた。死のうと思うことは誰にもあるでしょう。そこをどう乗り切るかなんだけど、あのころは不安だらけで、うまくいかなかった。

 当時、猪木は公私とも人生最大の危機を迎えていた。ブラジルで興した事業会社「アントンハイセル」が経営破たんし、億単位の借金を抱えた。プロレスでも、たけしプロレス軍団の参入や、海賊男の出現などの新展開は次々と失敗。会場では反発したファンの暴動が頻発し、新日本の人気は急降下した。また、私生活でも女優の倍賞美津子との間にすきま風が吹き始めていた。

 猪木 本気で死を決意した。すると逆に開き直ることができた。このまま終わるわけにはいかない。死ぬ前に大きな花火を打ち上げようと思った。どうせ死ぬなら、戦って死のうと…。

 そう思った時、歴史に残る決闘「武蔵と小次郎の戦い」が頭に浮かんだという。2人の武芸者が、無人島で命を懸けて雌雄を決する。雑音を排除し、邪念を捨てた、純粋なる戦い。そんな戦いができれば、たとえ死んでも悔いはない。巌流島でプロレスをやる−。思い立ったら、行動は早かった。対戦相手には東京プロレス時代からの盟友、マサ斎藤が名乗りを上げた。

 猪木 人気は下がっていたけど、ファンにこびるつもりはなかった。見せない、見なくていいよと。だから巌流島を選んだ。武蔵と小次郎になりきりたい気持ちもあったけどね。

 決闘の2日前に離婚届を提出した。身辺を整理し、公私にけじめをつけてリングに上がった。立会人は山本小鉄と坂口征二。時間は無制限だった。午後4時30分、山本小鉄が試合開始の合図を送る。斎藤が控室のテントから出てリングに上がった。だが、猪木はまるで武蔵のようになかなか姿を現さない。ようやく30分後、いら立つ斎藤に向かって、歩を進めていった。

 一進一退の攻防が続いた。夕闇が迫り、やがて日は沈んだ。午後6時、照明代わりに、コーナーポストにかがり火が立てられた。頭突きとパンチの応酬で両者とも顔面を血で染めた。2時間が過ぎると、フラフラになった。意地だけでぶつかり合った。最後は猪木が斎藤の背後に回り裸絞めを決めた。絞め落とされた斎藤は担架でテントに運ばれた。2時間5分14秒、猪木がTKO勝ちを収め、昭和の武蔵になった。

 猪木 マサもあの試合の後に、プロレスラーになって良かったと、言ってくれてね。プロレス人気は落ちていたのに、ヘリコプターが4機も上空を旋回していた。結果的にオレの離婚騒動に負けない大きな話題になった。一発逆転になったんだ。

 死を覚悟したリングで、猪木は再び生き残った。そして、命を懸けて戦い続けたことで、生への渇望と気力が沸き上がってきた。巌流島は猪木を公私ともに復活させた人生の節目であった。【田口潤】

[2006年11月3日13時19分]


▼プロレスの証言者 アントニオ猪木(10)
<最終章〜新日本と名勝負(10)〜>
http://www.nikkansports.com/battle/f-bt-tp0-20061104-112571.html

肉体が悲鳴を上げた

 アントニオ猪木は1998年(平10)4月の東京ドーム大会で現役を引退した。しかし、引退試合はあくまで儀式にすぎなかった。実はプロレスラーとしては、その10年前に燃え尽きていた。88年(昭63)8月8日、横浜文化体育館で行われた、愛弟子藤波辰爾とのIWGPヘビー級タイトルマッチ。猪木はこの試合をプロレス人生の区切りと位置付けている。当時45歳だった。

 猪木 もう体がぼろぼろでね。重い糖尿病を患っていて、医者からも「現役は無理です」と宣告されていた。40歳になったころから、いつも引退することを考えていた。

 39歳の誕生日の2カ月後、完全無欠の肉体が悲鳴を上げた。82年4月、左ひざ半月板損傷の重傷を負った。ひざの故障はプロレスラーにとって職業病ともいえるが、猪木の象徴でもあるストロングスタイルには、より影響が大きかった。その4カ月後の同8月には糖尿病と診断された。検査の結果、血糖値が通常の5倍もあった。このころから、体がだるく、思うように動けなくなった。

 肉体の衰えとともに猪木の最強神話も崩壊へと向かった。87年6月には長州力、藤波、前田らが新世代軍を結成。猪木の首を狙って世代交代対決を声高に要求してきた。もともと猪木自身が「強い者が勝つ」という実力主義を提唱して旗揚げした団体。下克上や弱肉強食は必然だった。

 12月27日の両国国技館大会のメーンで猪木−長州力の3年4カ月ぶりの一騎打ちが決まった。ところが、試合直前に「たけしプロレス軍団」の乱入で猪木−ベイダー戦に変更された。怒った3000人のファンが試合後に暴走。「猪木を出せ」と騒ぎ、会場を破壊した。猪木のプロデューサーとしての神通力も威光を失いつつあった。

 猪木 ある年齢になるとパワーが落ちる。当時は年々体力が落ちて、練習もきつくなっていた。マスコミに限界とか書かれたりもした。水風呂に入ったり、食事療法とか、何とか自分でコントロールしながら現役を続けていた。

 翌88年、45歳を迎えた猪木が「限界」を悟るある出来事が起きた。同4月、沖縄キャンプ中に、左足甲を骨折した。ケガには強い自信があったが、リング上ではなく、陸上トレーニング中にケガをしたことがショックだった。この負傷でIWGP王座返上の事態に見舞われた。さらに同7月22日には長州に初めてフォール負けを喫した。同8月8日、当時IWGP王者だった藤波への挑戦が決まると、猪木は「負けたら引退」を宣言してリングに上がった。

 試合は両者の意地がぶつかり合った。互いの得意技の応酬が続いた。60分が経過しても決着はつかなかった。時間切れ引き分け。負けはしなかったものの、タイトル奪還は失敗した。試合後、リングに上がってきた長州から肩ぐるまされ、越中に肩ぐるまされた藤波とがっちり握手。感動的な世代交代のシーンだった。試合後は「もう思い残すことはない」と引退を示唆。翌日の会見では新日本社長の辞任を明言した。

 しかし、当時の猪木の人気はまだまだ絶大だった。猪木不在は地方興行の集客にも影響する。新日本はもちろん、放送権を持つテレビ朝日も、団体の顔をすんなり引退させるわけにはいかなかった。必死の引き留めが始まった。その後、引退騒動はとりあえず棚上げになった。

 猪木 現役を辞めようと思ったが、そうできない状況になっていた。いろいろな人の思惑もあった。

 だが、1度薄れたリングへの熱意が戻ることはなかった。【田口潤】

[2006年11月4日13時0分]


▼プロレスの証言者 アントニオ猪木(11)
<最終章〜新日本と名勝負(11)〜>
http://www.nikkansports.com/battle/f-bt-tp0-20061105-112948.html

ソ連の格闘家を招聘

 1989年(平元)4月24日、新日本が世界のスポーツ界に歴史を刻んだ。プロレス界初の東京ドーム大会を開催。そこに世界最強といわれていたソ連(現ロシア)のアマレス、柔道選手を参戦させた。当時、社会主義国家だったソ連のアマチュア選手を、プロスポーツの興行に出場させることは不可能と思われていた。その常識をアントニオ猪木は覆し、世界を驚かせた。

 85年に就任したソ連のゴルバチョフ書記長が、政治体制の改革を目指したペレストロイカを提唱。民主化の動きが高まっていた。この情勢を猪木は注視していた。当時のソ連はアマレス、ボクシングなど、アマチュア格闘技界の頂点に立っていた。プロレス界にとって人材の宝庫。88年10月、ソ連のアマレス選手がプロレスに関心を持っているという情報を聞き、招聘(しょうへい)に乗り出した。

 猪木 反対意見も多かった。だけど失敗なんて考えなかった。歴史を振り返ると、常識がひっくり返っている。アリ戦もそうだったように、不可能はないと。

 すぐに新日本の幹部をモスクワに派遣した。しかし、交渉は難航した。ソ連にはプロレスという格闘技の概念がなかった。猪木は自らモスクワに乗り込んだ。プロレスラーである自分の口で、説得するつもりだった。大勢のアマレス選手が集まった会議に参加。そこで猪木流プロレス哲学を、分かりやすく「4つの柱」に分けて説明した。

 (1)受け身は自分の身を守るだけではない。相手の技をより美しく見せる。(2)力強い攻撃は観客に勇気を与える。ただしプロは相手を負傷させない。(3)表現力で怒り、悲しみ、苦悩を表現して観客に伝える。(4)感動的で激しい試合は選手同士の信頼関係から生まれる。

 猪木の大演説が終わると、会場はスタンディングオベーションに包まれたという。30年に及ぶレスラー生活で築き上げてきた理想のプロレス像には説得力があった。選手や関係者たちは猪木の言葉と熱意に胸を打たれ、プロレスに希望を抱いた。その直後、ソ連国家スポーツ委員会との契約にこぎつけた。

 猪木 プロレスへの思いをはき出した。それがソ連の人たちに伝わった。強さは当たり前。それに加えて観客を呼ぶためのプラスアルファが必要。それがプロレスなんだとね。

 一挙に5人の選手と契約した。ソ連との契約金は億単位の高額契約だった。しかし、猪木には戦略があった。5万人の観客を収容できる東京ドームで開催して元を取るつもりだった。大会当日、東京ドームには5万3800人の大観衆が集まった。61年(昭36)5月9日に力道山時代の日本プロレスが、奈良市あやめケ池公園大会で記録した3万5800人の最多集客数を28年ぶりに大幅更新した。

 猪木はメーンでモントリオール五輪柔道金メダリストのチョチョシビリとロープのない円形リングで戦った。最後は裏投げ3連発でKO負けした。異種格闘技戦で初めて敗北を喫した。しかし、すでに心の中で現役に区切りをつけていた猪木に、敗者の悲壮感はなかった。スポーツ界初ともいえる興行を大成功に導いた充実感があった。

 猪木 世界の情勢は子供のころから興味があった。兄のリーダーズダイジェストを読んだりしてね。オレの夢はいつも社会とリンクしていた。そこでいかに知恵を絞って、大衆にアピールするか…。そんな意識を今のレスラーも持ってほしい。【田口潤】

[2006年11月5日10時29分]


▼プロレスの証言者 アントニオ猪木(12)
<最終章〜新日本と名勝負(12)〜>
http://www.nikkansports.com/battle/f-bt-tp0-20061106-113370.html

初のプロレスラー出身の国会議員

 1989年(平元)7月、アントニオ猪木は参議院選挙に立候補した。初の東京ドーム興行を大成功させたわずか3カ月後の決断だった。ソ連(現ロシア)のアマチュア選手をリングに上げたことで、猪木の興味はプロレスの枠を飛び越えた。レスラーとして培った世界のネットワークと行動力を、国際社会で生かしたいと思った。

 猪木 父も政治家だったし、祖父は参議院選挙に立候補して落選している。もともとオレには政治家の遺伝子があった。当時は46歳。年齢的にも人生の転機だと感じていた。

 確かに父佐次郎さんは、元首相の吉田茂とともに自由党の結党に参加していた。決断すると、行動は早かった。すぐにスポーツ平和党を設立し自ら党首に就いた。しかし、周囲の目は冷ややかだった。政治評論家からは酷評され、世間からも「レスラーに何ができる」と批判された。あらためてプロレスラーの地位の低さを痛感した。

 リングの上でプロレスラーの地位向上を目指して、世間と戦ってきた。「八百長」「茶番」。さまざまな批判に立ち向かってきた。ストロングスタイルを掲げ、ボクシングの世界ヘビー級王者アリにも挑戦した。怒りをエネルギーに変えてきた。しかし、世間の目は簡単には変わらなかった。選挙もリングの上と同じだった。批判を浴びれば浴びるほど、猪木の反骨精神は高まり、闘魂に火が付いた。

 猪木 「スポーツと政治は違う」なんて言われてね。日本ではプロレスラーが何かやると偏見がある。何でプロレスラーが政治を語っちゃいけないんだ。絶対当選してやると思った。

 選挙活動ではあえてプロレスを前面に出した。当時話題の消費税問題を取り上げ「消費税に延髄斬り」「国会に卍固め」のスローガンを掲げた。行動力をアピールするために、100万人との握手を目標に、北海道から沖縄まで駆け回った。選挙のプロや代理店に頼らず、独自の運動方針を貫いた。「政治をばかにするな」の批判もあったが、破天荒な選挙活動は、マスコミから注目された。結果は99万3789票を集めて当選。初のプロレスラー出身の国会議員が誕生した。

 猪木 ファン=選挙民の心をつかむという意味では、選挙とプロレスの興行は同じだった。批判を受けても、変にかしこまらず、逆にプロレスラーを貫いた。それが成功した。

 当選後はリング上に注いできたエネルギーを、すべてを政治にぶつけた。初当選から6年間、外務委員会に籍を置き、猪木流の平和外交に尽力した。89年の大みそかにはモスクワで初のプロレスを開催。湾岸戦争の直前の90年12月には、イラクに乗り込んで空手、プロレスなどの「平和の祭典」を開き、日本人の人質を解放させた。95年4月には北朝鮮でもプロレスの興行を成功させた。

 猪木 地球環境を語るだけではだめ。行動しないと。オレはロシア人に酒の強さで勝った。とことんまで飲んだ。そこで本音が出る。そうしないと信用しないんだ。充実していたね。

 95年7月の参議院選挙では落選の憂き目にあった。金銭疑惑などのスキャンダルが足を引っ張った。しかし、落選後も、北朝鮮に足を運ぶなど、独自の民間外交活動は継続している。

 猪木 政治家が最終ゴールではない。あくまでスタート台だった。いい経験をさせてもらった。

 プロレスラーから国会へ。猪木が切り開いた道に、馳浩、大仁田厚が続いた。先月、女子プロレスラーの神取忍も参議院議員に繰り上げ当選した。猪木の体当たりの政治活動が、プロレスラーの地位を確実に向上させた。【田口潤】

[2006年11月6日10時15分]


▼プロレスの証言者 アントニオ猪木(13)
<最終章〜新日本と名勝負(13)〜>
http://www.nikkansports.com/battle/f-bt-tp0-20061107-113733.html

引退試合、ドン・フライ戦

 アントニオ猪木の引退試合の対戦相手は、当時、総合格闘技最強といわれたUFC王者ドン・フライだった。往年のライバルや後継者候補との、いわゆる「儀式」にはしなかった。最後まで闘魂を貫く決意がカードににじんでいた。98年(平成10年)4月、東京ドームにはプロレス史上最多の7万人の大観衆が押し寄せた。

 すでに猪木は89年7月の参議院議員初当選から第一線を退いていた。落選した95年7月までの6年間はビッグマッチ限定で18試合しか出場していない。当然、引退試合の対戦相手にはシン、ハンセン、ホーガンら、過去のライバルの名前が挙がった。しかし、猪木は拒否した。

 猪木「体はぼろぼろだったけど、センチメンタルな気分に浸るつもりはなかった。オレは強さを求めてプロレスラーになった。その原点の思いを最後まで貫くつもりだった。昔の選手ではなく、勢いある相手と戦って、力道山から引き継いできたものを伝承する戦いをしたかった」。

 生涯最後の戦いも、全盛期と同じように、プロレスの枠を超えて最強の座にこだわった。フライを筆頭に、柔道の元世界王者小川直也、総合格闘技で活躍する藤田和之、全米アルティメット大会準優勝のベネトゥー、オランダのレスリング王者メインダートら、国内外の王者級の強豪8選手を集めての、対戦相手決定トーナメント開催を決めた。

 実は猪木が引退試合を決意した裏にはもう1つ理由があった。89年6月、猪木の後を継いで坂口征二が社長に就任。長州力が現場監督として仕切った。猪木不在を危惧(きぐ)する声もあったが、好景気にも支えられ、再び黄金期を迎えた。1月4日の東京ドーム大会が定着。95年からの新日本対UWFインターの全面対抗戦も大成功に終わった。もう思い残すことはなかった。

 猪木「あのUWFインターとの対抗戦に関しては、オレは一切かかわっていない。長州がよくやってくれてね。今でも感謝している。あの時に、もう引退してもいいと感じた」。

 対戦相手決定トーナメントを勝ち上がったのはフライだった。引退試合を前に、猪木は米国・ロサンゼルスで合宿を張った。久しぶりのハードな練習で右足首をねんざ。体は悲鳴を上げた。55歳の肉体は練習だけで満身創痍(そうい)になった。しかし、猪木は眠っていた闘魂を呼び覚まして、最後のリングに上がっていた。

 ゴング開始から燃える闘魂がよみがえった。23歳下のフライを圧倒した。延髄斬(ぎ)り、弓を引くようなナックルパートを連打した。最後は戦意喪失でフラフラになったフライに、得意のコブラツイストを仕掛けた。そのままグラウンドコブラに移行し、わずか4分9秒でギブアップを奪った。

 猪木「いくら自信があるといっても、当時のオレは55歳。相手は現役バリバリだったからね。試合の途中で左のあばら骨が折れてね。痛みは感じなかったけど、途中から息ができなかった。でも傷はオレの勲章だから」。

 17歳で日本プロレス入門してから38年。猪木はプロレスラー人生に終止符を打った。最強を追い求め続けた男は、自ら限界を悟り潔く幕を引いた。最後までプロレス哲学を貫いた。リングサイドには、激闘を繰り広げたメンバーが顔をそろえた。アリ、ルスカ、バックランド…。

 猪木「プロレスは見せる商売。見せられる状況でなくなったら辞めるべきだ。アリも来てくれてた。感慨深かったけど、涙は出なかった。人生が終わるわけじゃない。プロレス、格闘技を世界に広めるという夢もあった。過去を振り返る暇はないし、思い出話も好きじゃない。オレは永遠に進行形だから」。【田口潤】

[2006年11月7日9時30分]

▼プロレスの証言者 アントニオ猪木(14)
<最終章〜新日本との名勝負(14)〜>
http://www.nikkansports.com/battle/f-bt-tp0-20061108-114161.html

ばか野郎、手を抜くな

 21世紀に突入してプロレス人気は急落した。アントニオ猪木が創設した新日本プロレスも例外ではなかった。90年代には蝶野、橋本、武藤の闘魂三銃士ら第3世代を中心に、最大勢力を誇ったが人気は長く続かなかった。K−1やPRIDEの台頭。長州力、橋本、武藤ら主力選手の離脱などがその要因といわれる。しかし、猪木は低迷の最大の原因は、リングの中にあると指摘する。

 猪木「オレは対戦相手はもちろんだが、観客とも戦ってきた。『八百長』という視線をひっくり返してやろうとね。ところが今の選手たちのプロレスには戦いがない。練習はしねえ…。挙げればきりがない。だめになったところを最も反映するのがリングの上。戦いがなくなったらブロードウェーのミュージカルだ」。

 今年7月17日の新日本札幌大会。来場した猪木は久しぶりに若い選手たちの試合を見て落胆した。残念ながら殺気や緊迫感が伝わってこなかった。会場の入りもいまひとつで、盛り上がりに欠けた。肉体の極限まで耐えて相手の力を引き出し、ギリギリの戦いでファンを魅了した時代からは隔世の感があった。黙っていられなかった。

 猪木「『ばか野郎、手を抜くな』と怒鳴ったよ。ファンだってそう思っている。客の目は節穴じゃない。オレは昔、だらしない試合をしたやつを竹刀でひっぱたいていた。それがオレの次の世代に『おめえら』と怒るやつがいない。統率力がない。だから新日本は堕落した」。

 なぜリングの上に戦いがなくなったのか。猪木は時代背景も一因に挙げる。現在の北朝鮮で生まれた力道山は、来日当初から数々の差別と戦ってきた。当時は素性も明かせなかった。その情念が迫力あるファイトにつながった。一方で猪木もブラジル移民だったことをはじめ劣等感の固まりだったという。

 猪木「力道山の空手チョップには差別への怒り、故郷への怨念(おんねん)が凝縮されていた。だから迫力があったし、一発で観客の心をつかんだ。オレもブラジル移民、学歴、八百長といわれたことへの怒りがあった。今の若い連中には社会への怒りがないし、少し人気が出るともう天下を取った気分になる」。

 一方で現場には猪木を新日本低迷の原因と指摘する声も大きい。大会直前にマッチメークを変更し、何度も現場は混乱したという。プロレスよりも格闘技を重視する方針も、一部選手の反発を招いた。猪木流の大胆な改革案でもあったが、会社側とのコミュニケーション不足もあり、互いに誤解を生んだ。しかし、この批判には猪木にも反論がある。

 猪木「オレはいつも革新派。新日本がプロレス界最大の団体になっても、いつも革命的な強い気持ちがあった。だから面白かった。それが、いつからか新日本は体制派になってあぐらをかいてしまった。そのおごりが、今の低迷を招いた」。

 昨年11月、猪木は新日本との関係を絶った。保有していた新日本の株式51・5%をゲーム製作・販売会社ユークスに売却。オーナーから降りた。その一方で新日本は今年1月の契約更改で厳しいリストラを行い、選手が大量離脱した。歯止めのかからない低迷に打開策はあるのか。

 猪木「プロレスが面白ければ、客は来る。あとは大きな花火を上げて、ファンを引きつけること。サイモン(社長)も就任して1年半。新日本をぶっつぶすくらいの気持ちを持たないとだめ。スクラップ・アンド・ビルド。壊して作っていくくらいの大胆な発想を持ってほしい」。【田口潤】

[2006年11月8日9時31分]


▼プロレスの証言者 アントニオ猪木(15)
<最終章〜新日本と名勝負(最終回)〜>
http://www.nikkansports.com/battle/f-bt-tp0-20061109-114625.html

オレの後継者はいない

 アントニオ猪木は来年2月20日に64歳になる。現役引退から8年がすぎた。しかし、その人気はいまだ衰えていない。商標登録された「1、2、3、ダッー」は大衆に支持され、闘魂を注入する「猪木ビンタ」も流行した。現在も格闘技の大会プロデュースに走り回り、休日もない。

 猪木「小川(直也)とオレが道を歩いたとしよう。ファンはどっちに行く? ハッスルポーズの流行は終わったけど、『1、2、3、ダッー』は終わらない。オレが六本木を歩くと人の渦ができる。スポーツ選手は現役を引退すれば人気が下がる。オレは全然下がらない。『それは猪木さんだから』というけど、なぜかを分析した人はいない」。

 確かに猪木は「プロレスラー」に幕を引いた。しかし、すでにその存在はプロレスの枠をとび超えていた。ボクシング世界ヘビー級王者アリと戦い、極真空手を相手にし、劇画のタイガーマスクやソ連のアマレス軍団をリングに登場させた。参議院議員として戦火(湾岸戦争)のイラクに乗り込み、日本人の人質解放にも尽力した。その常識を超えた発想と行動力が、いつしか猪木をカリスマへと押し上げた。

 大衆を引きつけてやまない、あくなき夢への挑戦は引退後も衰えていない。00年12月31日にプロレスと格闘技をミックスさせた猪木祭りを開催。現在の大みそか格闘技の道を切り開いた。02年8月のDynamiteでは3000メートル上空からスカイダイビングに挑み、約9万人で埋まった国立競技場に着地。いまだに格闘技界の第一人者として、世間を驚かせ続けている。

 猪木「プロレスは非常識なもので、日常できないことを代弁してくれる。そこが支持されるところでもある。今はレスラーも含めて、大きな夢を持つ人がいない。サラリーマンばかりになった。だからスケールのある生き様に、人々は感動するんだ」。

 もちろん一時は後継者育成にも本気で乗り出した。引退直前から、柔道世界王者の小川直也をマンツーマン指導。猪木イズムをたたき込んだ。引退後は藤田和之をまな弟子として帝王学を伝授した。2人とも素質では師を超える可能性を秘めていた。しかし、アントニオ猪木にはなれなかった。

 猪木「オレの後継者はいない。サッカーでも、相撲でも真のスターがいない。つまり時代が求めていないんだ。スターには持って生まれた使命感、感性がないとだめなんだよ。オレには超一流ヒーローだった力道山の付け人として積み重ねたものがあったから」。

 猪木の後継者は、猪木しかいなかった。だから今も第一線で走り続ける。自宅のある米ニューヨークと日本を頻繁に行き来し、自らの事業と格闘技関係の仕事をこなす。米国の格闘技団体IFLのアドバイザーにも就任した。まだまだ夢は無限にある。

 猪木「格闘技の殿堂をつくりたい。世界の格闘技の学校にする。いずれは日本から格闘技の文化を発信したいんだ」。

 夢のない社会といわれて久しい。だからこそ大衆は猪木を支持し続ける。日本人にとって「アントニオ猪木」とは「夢」そのものなのかもしれない。数々の伝説を歴史に刻んできた「燃える闘魂」は、いまだ燃え尽きてはいない。

 猪木「どんな金持ちでも、猪木にはなれないとの自負がある。同年代の王さん、長嶋さんは病を抱えてしまった。オレも糖尿病だが、今でも毎日ワイン2〜3本をあける。夢のためには付き合いも必要だから。夢のために己に打ち勝ち、夢のために1歩踏み出す勇気を持つ。それが猪木イズム、それが闘魂。オレは死ぬまで夢を追い続ける」。【田口潤】(おわり)

[2006年11月9日10時35分]
posted by プロレスの証言者 アントニオ猪木 at 01:21| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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